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■ EXIT
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絹の指のクレア 前編


夕刻に激しく降った雨のせいか、その日の妖精館には客がまばら だった。日付が変わるころには、ほとんど全部の窓の灯りが消えて いた。その中の一つ、重暗い部屋の中で、皺だらけのシーツに身体を預 けて、美しい少女が泣いていた。

名を、クレア・グレイウイッシュ。誇り高いエルフの妖精だった。

無論妖精館にいるからには、客をもてなす技術も礼儀も、十二分 に心得ている。にもかかわらず、彼女を抱いた客は、なぜだか煮え 切らない表情で部屋を後にするのだった。裏切られたような怒りを 顔に浮かべ、ドアを蹴飛ばすようにして部屋を出る客もいた。

「わたし…わたし、どこがいけないの…どうして…」

うわごとのようにクレアは呟き、掻き乱れる胸のままに、泣いた。
今夜もまた、客は苛立ちを見せて帰ったのだった。

「母さん助けて…わたし、もう帰りたい…もうここにいたくない…」

誰も、その声を聞かなかった。部屋は牢獄のように、クレアを包 んで、厳然とそこにあった。

「…よくないわね」

クレアが泣く部屋の階下、妖精館の支配人、ファリア・シェリエ ストの執務する部屋では、ディスプレイに浮かんだ情報を見て、そ のファリアが溜息をついた。

表示されているのは、クレアの個人データ、客の感想、リピート 率などの数値や文章。それはことごとく悪化を示していた。

妖精館は遮二無二人気を求めたり、指名料を貪るところではない。
しかし客が嫌う妖精の存在を、いつまでも許すところではなかった。

「手を打たないと、彼女が苦しいだけね…」

故郷へ送り返してしまえればいっそ楽なのだが、
できない理由がクレアにはあった。

クレアの母は、ルフィルから遠く離れた都市で、妖精館の支店を 営んでいる。そしてファリアの古い友人でもあった。

「この子に勉強させてほしいの。あなただから頼めるのよ、お願い」

クレアを伴って訪れた日、母は深々と頭を下げて、そう頼んだの だった。

聞けば、既にクレアはその都市の妖精館で五指に入る人気の持ち 主だという。それが何故?と、彼女の意図を測りかねて返事をため らうファリアに母は、
「将来この子には、私の後を継いでもらいたいの。そのためには愛 され、ちやほやされるだけではだめ。何が妖精にとって必要なの か、客をもてなすということの本質を知ってもらいたいの。顔な じみしか来ない地方じゃ、なかなかそれは学べないと思うから」 と説明した。

その口調に、二人の真剣な眼差しに、嘘を感じなかったファリアは、 「わかりました。クレアはうちでお預かりしましょう」
そう言って、礼儀正しくクレアを迎えたのだった。

しかし・・・最初の数日こそ人気だったものの、クレアの存在が知られるにつ れ、繰り返して指名する客が減りはじめた。妖精館を辞して後、電 話やメールで妖精館に対し、クレアの評価を漏らす客すらいた。

「確かに可愛いよ。ベッドマナーもいいんだ。
 でも…なんだか物足りないんだよなあ。
 まるで温かい機械を抱いてるみたいだ」

表現は変われど、概ねそういう評価が、クレアに対して出来上が りつつあった。妖精としては最低級の評価といってもよかった。

「まさか部屋を監視して、指導ってわけにもいかないし…」

眉をしかめてファリアは一人ごちた。その苛立ちが指に出て、重 厚なマホガニーの机に単調なリズムを刻む…




夜が明け、朝が来た。突き抜けるような蒼い空の下、夢から醒め た妖精たちが三々五々、食堂に集ってくる。オープンテラスはあっ という間に埋まり、イリナ、ベルリナ、イエッタの三人は、やむな く出入り口に一番近いテーブルを確保して、楽しい朝食を始めた。

「イリナさん、今日の講義は午前からですの?」

「いいや、ボクは午後だけ。のんびり行くよ」

「私は聴きたい講義があるので、朝から行きます」

とベルリナにイエッタが言う。ベルリナは快活に頷き答えた。

「まあ、ではご一緒しましょう!」

「ええ、いいですよ」

あれやこれやを喋っているうちに、時計の針が背中を押す。

「あら、もうこんな時間。じゃあイリナさん、お先に」

「うん、二人とも行ってらっしゃい。お昼に学生食堂で合流しよう」

「わかりました」

丁寧に礼をしたベルリナとイエッタが去ったあと、豊潤な香りの カプチーノをゆっくり味わったイリナは、上機嫌で食堂を見渡し、 「?」影のように一人座り、食事というよりは餌を取る侘しさを漂わせ て、黙々と口を動かすクレアを見つけた。

軽い胸騒ぎを覚えた時、イリナの腰は椅子から浮いていた。

(どうしたんだろう)

そう思った時には、既に足がその少女へ向いて動いている。困っ ているらしい人を見ると、ほとんど本能的に放っておけなくなる、 イリナ・ラングレーの優しさがなせる行動だった。

「おはよう」
「…」

クレアは視線もよこさず、ただただ口を動かす。見れば皿の上の パンや果物、サラダはほとんど減っておらず、最初の一口をずうっ と噛み締めているようだった。

「何かあったの?ボクで良ければ相談に…」

ガチャン!

クレアが激しくテーブルを叩き、食器が悲鳴を上げた。華やいだ 食堂の空気が、その音で魔法を破られたように凍った。

「…わたしに…」

口を動かすのをやめ、居合わせた皆の視線のただ中で、クレアが 立ち上がり、イリナに向き直った。その目に荒れた感情を湛え、イ リナを睨み、言葉を搾り出す。

「わたしにかまわないで。放っておいて」

拒絶の言葉がイリナに突き刺さる。胸を抉られるようなその痛み を懸命にこらえ、イリナはクレアから視線を逸らさずに応えた。

「放っておけないよ。悲しい顔を見るのは嫌だよ…誰のでも」
「うるさい!」

パアン、と乾いた音がした。クレアの手がイリナの頬を、音高く 叩き、小さな悲鳴がそこここから上がった。 その悲鳴が、クレアをようやく気づかせた。人を傷つけた痛みと、 手の重い痺れが、たちまち激しい後悔に変わってゆく、その時も、 イリナは、そこに立っていた。叩かれた頬はみるみる腫れ上がって いったが、身じろぎもせず、瞳も逸らさずに、クレアを見つめてい た。




「あ、ああ…ごめんなさい…ごめんなさい、ごめんなさい…!」

緊張と怒りの糸が切れたのか、クレアが顔を覆って泣きだした。 痙攣するその肩に、イリナがそっと手を置き、優しく諭した。

「ボクを叩いて気が済めば、いいよ…
 でも、それじゃ何も変わらないよ。
 ね、ボクでよければ力になるから…話して」

駆け寄ろうとする妖精達を、きっぱりと片手で制して、イリナは クレアの肩を抱き、外へ出るように優しく促した。クレアは嗚咽を 上げながら、沈んだ足取りで従い、一歩退いた妖精達の前を通り、 テラスの端から、庭へと降り立った。

小さな生垣についた、やはり小さな門をくぐり、曲がり角の先へ 影が消えると、緊張から逃れるように安堵の息を吐く者も、心 配そうに見つめる者も、再び食事を食べ始め、妖精館の食 堂は、再び活動を始めた…

嗚咽が止まらないクレアをしばらく歩かせて、イリナは妖精館の 庭の奥にある、小さな泉のほとりへと導いた。周囲を高めの木が覆 うそこには、小さなベンチがひとつ。他には何も無い。 忘れられた ようなその空間は、思索に耽るには絶好の場所だと、ベルリナが教 えてくれたのだった。

ベンチにクレアを座らせると、イリナは泉の澄んだ水で自分のハ ンカチを湿らせ、腫れた頬に当てた。

「ごめんなさい…カッとしてしまって…」

まだ大粒の涙をこぼすクレアに、イリナは笑いかけた。」

「大丈夫、ボク頑丈だから。それに」

イリナが微笑むと、頬の腫れが、音を立てるような勢いで引いて いった。腫れがすぐに小さな点になり、ふっと消えて、イリナはハ ンカチを頬から離した。

「ね、これで元通り」

「い、今の…治癒魔法ですか?そんな簡単に使えるなんて…」

「うん、これくらいなら。
 それより自己紹介だね、ボクはイリナ・クィンス」

「クレア…クレア・グレイウイッシュ、です」

エルフ属特有の、長く繊細な耳をかすかに震わせて、クレアは先 程よりはずいぶんと柔らかい表情で、名乗った。

「いい名前だね」
「ありがとう」

はにかんだ笑みをクレアは浮かべた。
同姓のイリナが見ても、可愛いと思える、いい笑顔だった。

それからクレアは、とつとつと、自分の事を話しはじめた。

「私の母は、地方で妖精館を営んでいます。
 だから私も、沢山の妖精を姉みたいにして育ちました。
 みんな優しくて、明るくて…大好きでした。
 大きくなったら私も妖精になるんだって、小さい頃から思っていました」

イリナはクレアを見つめて、何度も頷く。

「妖精になったのは一年くらい前です。
 最初はもう、無我夢中でしたけれど、母も、
 同僚になった妖精も、お客さんも丁寧に教えてくれました。
 クラスメイトが来たときはもう、どうしようかと思いましたけど…」

「うん、あるある〜。
 ボクもこの間、知ってる顔の人が来たよ。そういう時はね、ほら」

イリナがさわっと、自分の顔を一撫でした。途端、「!?」 まったく顔が変わらないのに、別人がそこに現れたようだった。 瞬きする間にイリナが消えて、同じ顔の別人が現れたような、まさ に魔法じかけの光景の中で、クレアは目を白黒させた。

「マ…マスカレーションの魔法ですか?姿は変わらないけど…」

「ちょっと違うけど、まあ使い方は似てるね。
 第一印象をコントロールする、って言えばいいかな?」  

もう一度イリナが顔を撫でると、たちまち元のイリナが現れた。
自分の知らない魔法を苦も無く操る事に、クレアは尊敬の念を抱い た。

「ひょっとしてクレアってミュルス一族なの?」

「はい」

ミュルス一族とは種族を増やす喜びと技術、すなわち性行為と医療の技術と知識を広めた聖母ミューンを崇め、古より娼婦、公娼に従事てきた一族の事である。数千年に及ぶ技術・環境要素による遺伝継承によって性分野のエキスパートとも言える。国境を問わず夜の世界においてすさまじい影響力を持つのだ。

イリナの理解者であるファリア館長もミュルス一族で、かつて"白檀の妖精”の二つ名で呼ばれた程の人物で、今ではER圏全域に広がる妖精館を代表する存在であった。また、ミュルス枢機院議長補佐という要職にも就いている。

「なるほど〜、話を折ってごめんね。
 さ、お話続けて」

イリナがクレアに促す。

「あ、はい…
 でも、それだけではいけないと、母がある日言いました。
 外の世界を知りなさい、もっと沢山の人と会いなさい、と教えられて、
 母は私をここへ連れて来ました」

「ふうん、厳しいけど…優しいお母さんなんだね」

「はい、母は私の誇りです」

明るくきっぱりと、クレアは言った。爽やかなその表情がしかし、
陽が陰るように曇り、
「でも…ここで過ごしはじめて、知らないお客さんと会って…私、
 自分に自信がなくなってきたんです」  

「…なぜ?クレアさんは」

「あ、クレアでいいですよ」

イリナは頷くと言い直した。

「クレアはボクから見ても、とても可愛いし、礼儀もすごくいいと思うよ。
 ボクなんかダメだもん、ボクって言うのやめられないし」

「ありがとう…嬉しいです。でも、礼儀だけではダメなんですね。
 お客さんが喜ばないと、妖精失格ですもの。
 さっきイリナさんに声をかけられなかったら、私今ごろ、
 どこかへ逃げちゃっていたでしょうね」

ずい、とイリナが目に心配を浮かべてにじり寄った。

「そこまで思いつめるなんて、大変だよ。
 身体、壊しちゃうよ。なぜ、自信がなくなったの?」

「…よくわかりませんが、お客さんがみんな、
 満足しておられないようなんです。
 いっそ罵しってくれた方が楽かもしれませんが、
 やっぱり皆さん優しいんですね、黙って部屋を出てゆきます…
 その後姿を見送るのが、とても辛くて…悲しくて…」

クレアがその細い指で、目尻に浮いた涙を拭った。
イリナも目を潤ませていた。

「大丈夫、大丈夫だよ。きっとなんとかなるよ、ボクも手伝う!
 …これだって解決法は、今はわからないけど…」

「ありがとう。聞いてくれる人がいて、随分楽になりました…
 もう少し頑張ってみますね」

「うん!」

もう一度柔らかく微笑んで、クレアは立ち上がった。

「元気が出てきたらお腹がすいちゃいました。
 食堂へ戻って、朝ごはんを食べてきます」

「そうだね、お腹が空いてちゃ元気も出ないし」

「では、失礼します。イリナさん、本当にありがとう」

「うん、じゃあまた」

何度も礼をして歩み去るクレアの姿を見送りながら、イリナの思 考はフル回転を始めていた。自分のことより何より、今はクレアの 役に立てるかどうかが、イリナの思考を支配していた。









「何かいい方法はないかなあ…
 先生みたいな人がいればいいんだけど…
 ボクも独学みたいなものだから、あまり参考にはならないし」

クレアが去った後、泉のほとりで、イリナは首を捻りながら考え ていた。とその時、「そうだ!」イリナは小さく叫ぶと、一目散に私室へ 向かって駆け出した。

生垣を飛び越え、廊下を走り、ドアのロックを解除するのももど かしく部屋へ飛び込み、自分用の小型コンピュータを起動させる。

電光石火でパスワードを打ち込むと、メールソフトが起動して、最 新のメッセージを表示した。それは昨日の夜に届いた、今は海の上 にいるだろう、ハンス・イェーガーからだった。


「イリナ、元気ですか。俺は元気です。
 大きな低気圧にぶつかったので、訓練の日程が繰り上げられました。
 先輩達は、「ヒヨッコに機体を壊されてたまるか」と笑ってますが、
 嵐の中での訓練は本当に危険なので、思いやってくれたのだと思います。

 でも再出発も繰り上がったので、明後日の夜上陸して、
 翌日の15時には船に戻らないといけません。

 一晩しか君といられないのは残念だけど、
 その分目いっぱい楽しみたいと思います。
 待っててください。ハンスより、愛を込めて」

その文面を何度も読み返して、イリナは自信ありげに頷いた。

「イリナさん、何かいいことございました?」

大学の食堂で、ベルリナ・イエッタと合流したイリナは、旺盛な食欲 でランチをぱくつき、ベルリナに怪訝な目を向けられた。

「えー?別に何もないよ、うふふっ」

「顔に書いてますよ、彼が来るんでしょう」

イエッタの鋭い洞察に、思わずイリナはたじろいだ。

「すご、イエッタさん…正解。なんで解るの?」

「そりゃあ解りますよ、イリナさんが沢山食べる時は、
 夜通し起きてないといけない時だから。彼、元気でしょうからね」

「う、あ、えーと、まあそうだけど…あははは」

照れ隠しにイリナは、パンにかぶりついた。

そして二日後の朝、大学へ向かう前に、イリナはまず館長室を訪れ、先日の経緯を手短に話した。人づてにその事を耳に入れていたファリアは得心し、クレアを助けようと努力するイリナの心を褒めた。

「え?66号室を一晩使用予約…一晩一人のみで指名受け、ですって?
 いいけど、何をする気なの、イリナ」

「上手くいくかどうか…わかりませんが…
 クレアの悩みを少しでも小さくできるように、考えています」

真摯なイリナの声と、揺らぎ無い瞳に、ファリアは頷いた。

「わかったわ。管制室には私から手配しておきます」

「ありがとうございます。では、失礼します」

「行ってらっしゃい」

丁寧に礼をしてイリナが去ったあと、ファリアはかすかに笑って一人ごちた。

「世話好きなのは、ラングレー家の伝統かしらね?」

そして約束を守るべく、インターフォンに指を伸ばした…

イリナはそれから、クレアの私室を訪れ、
「えっとね…今夜ボクから連絡があったら、66号室に来てくれる?
 その時、必ず妖精の服を着てきてほしいんだ」

「構いませんけど、なぜですか?」

「…今はまだ全部言えないけど、
 クレアの力になれる事が、できると思うの。迷惑かな…」

いいえ、とクレアは優しくかぶりを振った。

「私の方こそ…そんなに心配してくれて…ありがとう。
 必ず行きます、管理室にはお休みを申請しますから、
 私室へコールしてください」

「わかった。じゃあ、今夜ね」

「はい…」

その日の時計は速く回った。

授業を終えたイリナは飛ぶようにして妖精館へ戻り、
丁寧に身づくろいをして、妖精館の指定服を着た。

そして鏡の前に立つ。
白い絹を幾重にも編み重ね、高度な縫製を駆使して造られたその服。
コストなど度外視したこれこそが、妖精館を夢見る場所へ、娼婦を妖精へと変える力を持っていることを、イリナはもちろん誰もが知っていた。

素肌に優しく触れる、シルクの感触。下着もシルクを着けたイリナは、その服 をまるで妖精の羽の様にも感じていた。

「ハンス、早く来ないかな…」

一人ごちながらイリナは、緩やかに踊るように、鏡の前でポーズをつける。白絹の手袋が、指を包んであでやかに翻る。

イリナの胸が、熱い鼓動を刻んでいた。今夜はいつもより身体が熱い。あの激しい衝動とは少し違うが、それでも身体は切なくハンスを求めていた。逢う度に逞しくなる腕に抱かれ、胸を重ねて、あの熱い滾りで激しく貫いて欲しかった…
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