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■ EXIT
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イエッタ・クライン


10日ほど前、彼女は妖精館にやって来た。

  すべやかな、白い肌。
  漆黒の、髪。
  黒水晶色のような、瞳。
  薄い笑みを浮かべた、紅い唇。
  高い背としなやかさを持つ、その肢体。

「イエッタ・クラインです。よろしく」

身体をかすかに折って礼をした、その仕草だけで人を唸らせる ほど、イエッタは美しかった。

「美しい、方ですわ。とても素敵」

ベルリナが瞳を輝かせ、そう語る。

「ちょっと無口だけど…なんだか格好いい人、かな」

イリナはそう答える。

いつもかすかに微笑み、礼儀正しくもの静か。誰かが窓を拭いて いれば、躊躇なくそれを手伝う優しさがあるかと思えば、屋根で途 方に暮れている子猫を救いだす、その鮮やかな身のこなしは、一級 のアスリートを思わせる。

それに加えて、人間であったがエルフにも拮抗しうる美しさをも持つのだから、皆 への受けが悪かろうはずもなかった。

「娼婦としては合格よ。もう少し愛想が良ければなおいいわね」

ファリアが語るその通り、イエッタは来た日の夜には、もう客を取った。
おとなし過ぎると不平をかこつ客もいたが、その丁寧な物 腰は、この数日で相次いで指名を受ける程度には評価されていた。

素敵な彼女は、イエッタ・クライン。
静かな笑みのどこかしら、寂しい陰のよぎる人。
夕陽が庭を染め上げる、そんな時間に一人佇み、どこかしら遠い目 をしている、そんな彼女を見たベルリナは、 「泣いてるような、雰囲気でしたわ…」ぽつりと語り、溜息をついた。

そして快晴の日曜日。ベルリナはイリナと連れ立って、イエッタ の部屋の前で逡巡していた。

「やっぱりやめた方が…」

不安を隠さず、イリナがベルリナに囁く。

「いいえ、誠意をもってお願いすればきっと叶いますわ」

ベルリナも囁いて答える。
その気配を感じたのか、二人の囁きを聞きつけたのか、
「私に用ですか?」唐突にドアが開き、イエッタが顔を出した。

「!?い、い、イエッタさん!」

声を裏返したあと、いつもは速射砲のように喋るベルリナが、目 を白黒させながら言いよどむ。傍らに立つイリナは、はらはらしな がら沈黙を守っていた。

イエッタはそれを咎めもせず、軽く首をかしげ、深い黒の瞳で、 優しく見つめていた。

「…あの…あのですね、イエッタさん…わたくしと、いえ私達と」

しばらくして、ようやくパニックから立ち直ったベルリナは、深 呼吸をすると決意の言葉を放った。

「デート、してくださいっ!」

同時にベルリナは頭を垂れ、身体をほとんど二つに折り曲げ、そ のままで返事を待った。

  五秒。
  十秒。
  十五秒。

二十秒に届く少し前、「…デート…ですか?」
イエッタの迷うような声を、イリナもベルリナも初めて聞いた。

見ればイエッタは、困惑そのものの表情を浮かべ、腕を組んでいる。
どう答えていいのか、本当に解らないらしかった。

「デートという言葉がお嫌でしたら…その…一緒に歩いたり、
 お買い物に付き合っていただく…というのは、いかがでしょう…か…」

腰が折れてしまうのではないかと思えるくらい、
律儀にお辞儀のポーズを崩さず、ベルリナが呟いた。

「ああ、お買い物ですか…いいですよ、荷物くらいは持てます」

気遣うイエッタの言葉に勇気百倍のベルリナは、バネ仕掛けのよ うに起き上がり、満面を笑みに染めて感謝した。

「ありがとうございます!早速出かけましょう!」

勇ましく宣言した。

「…はい」

やれやれ、といった感で、イエッタが肩をすくめる。どこかその 仕草は、やんちゃな妹に手を焼く姉といったように見えた。 ベルリナは無邪気に、イエッタの手を取る。イリナもつられて、 もう一方の手を取る。両手を二人に預けたイエッタは、ゆっくりと 歩を進めた。

部屋を出る刹那、イエッタが白い歯を見せて笑った。
それは一瞬だが、とてもいい笑顔だった。

日曜の街は、おもちゃ箱のような刺激に満ちていた。あちこちで 歓声があがり、幸せそうな顔をした家族が行き交う。屋台からだろ うか、香ばしい食べ物の香りが漂う雑踏の中を、三人はそぞろ歩い ていた。

「…」

イエッタは無言のまま、無遠慮に投げかけられる視線に耐えてい る。背が高く、美しいとなれば否応なく目立つからだが、彼女はそ う見られた経験がないらしく、連れだって歩くイリナとベルリナに も感じられるくらい、戸惑ったようなオーラを纏わりつかせていた。

「あ、あのわたくし、ちょっとあれを買ってきますわ」

その雰囲気を好転させようと、ベルリナはソフトクリームのスタ ンドを指差し、二人の返事も待たずに駆け出していった。精一杯の 無邪気さを装った、その可愛い背中が雑踏にまぎれたとき、イエッ タはふうっと溜息をついた。

「…大丈夫ですよ。私なら、大丈夫」

下から心配そうに見上げるイリナを気遣い、イエッタは作り笑い を浮かべた。鈍い痛みをごまかすような、笑みだった。

「ボク達、悪いことを…しちゃったの、かな…」

「いいえ。誘ってくれて、嬉しかった。
 私は十分に楽しんでいますよ。
 ただ、人からじろじろ見られるのが苦手なだけ」  

「ボクだって、苦手だなぁ…見るだけじゃなくて、
 お尻とか胸とか、触ったりする人もいるし。
 一番嫌いなのは耳を乱暴に触る人」

「妖精館のお客で、ですか?」

「うん。たまにだけど。イエッタさんは、どういう人が嫌い?」

イエッタは少しの間考える素振りをし、
「…一番嫌いなのは、自分です。誰よりも」

イエッタの声のトーンが落ちた。それを聞いた瞬間、しまったと いう苦味が、イリナの胸に溢れた。

その時。

「!」

何かを見つけたらしいイエッタが、ぐいとイリナの服を引っ張り、 促すように速足で歩き出した。リーチの違いもあって、その飛び出 すような歩調に、イリナはついてゆくのが精一杯だった。









イエッタの足は、迷いなく、先ほどベルリナが向かった、ソフト クリームのスタンドへ向いていた。そして何層かの人垣を押しのけ ると、そのベルリナが、いささか面倒な事態に巻き込まれていた。 小柄なベルリナを囲むように立つ、三人の若者。全員男だ。

不快さをすぐ暴力に変換して、傍若無人に振舞うことが若さの特権だと 勘違いしていそうな雰囲気が、男達からぷんぷん臭っていた。

「どーしてくれんだよ、ええ!?」

男の一人が、べっとりとクリームのついた上着をみせつける。ベ ルリナは一度に持とうと無理をしたらしく、その足もとには三個の アイスコーンが、無惨な姿を晒していた。

「申し訳ありません…クリーニング代は必ずお支払いします…」

今にも泣き出しそうな顔をして、ベルリナはぺこぺこと頭を下げ ている。それを見下げる男達の目に、好色な光が宿っていた。

「これ、ホテルの風呂でないと、落ちねえなあ〜」

びくんとベルリナの身体がこわばる。逃げられないぞとでも言い たげに、左右に立っている二人が、折りたたみのナイフをポケット から出し、耳障りな音をたてて弄びはじめた。そして真ん中の男が、 俯いたまま動かないベルリナの耳を指でつまむ。

「エルフを犯るのは初めてだぜ、せいぜい可愛がってやる」よ、と 言いかけたとき、すい、と陰がベルリナの背後に立った。

イリナを待たせて歩み寄ってきた、イエッタ・クラインだった。

「もういいでしょう。それくらいにしてあげてください」

男達から見ても相当に見上げるほどの、長身のシルエット。低い 静かな声が、男達を戒めるが、それを意に介すほど彼等は利口では なかった。むしろ新しい獲物が増えたと勘違いした。

「ああ?なんだテメエ」

「この子の友達です。私からも謝ります」

え、と振り向くベルリナをさりげなく自分の後ろへ送って庇い ながらイエッタは丁寧に頭を下げた。

「へへっ、じゃあ一緒に来てもらおうか。
 そこのエルフとミックスして、楽しませてやるよ」

男達は下卑た笑いを上げた。

たっぷり笑わせたあと、イエッタは、顔をゆっくり上げた。
男達を見据える瞳に、暗い炎が、灯っていた。

「…いい加減にしろ」

呟きざま、イエッタは右手を上げた。傍から見ればその動きは、 右腕が霞んだようにも思えるくらい、疾かった。

ニ度、頬の鳴る音がした。その音が空気に消える頃、イエッタの 正面にいた男は、左右の頬を腫れ上がらせ、白目を剥いて、がくり と崩折れた。一拍遅れて、鼻から太い血の筋が二つ、流れ出てきて 服に滴りはじめた。

「!?」

ナイフで遊んでいた男達が、数秒して事態を把握すると、 「っテメエ!」叫びざま、危険なオモチャをイエッタに向けて突き出した。何度 か成功しているらしく、計算されたコンビネーションだった。

ごく僅かに、右の男の方が早い。それをかわしても左側の刃が迫 って来るし、それもかわせば体勢が崩れて、男達が獲物に飛びかか る機会が訪れる。無論最初からかわさなければ、刃が腹に食いこん でそれまでだ。場慣れした時間差攻撃だった。

しかし、いともあっさりと、それは無駄になった。

イエッタは無造作に、右の男の手首を掴んだ。 獲物の腹にあと数センチの所で、ナイフが急停止させられる。 続いて左側。これもまた、無造作に掴んで動きを止める。

そしてそのまま動かない。男達が動きたくても動かせない。細く たおやかなイエッタの腕が、鬼のような強力を奮っていた。

数秒して、不気味な沈黙を、「めしっ」「みちっ」湿った嫌な音が 破った。男達の顔から血の気が引いた。足をばたつかせ、身をよじって、 腕を引き抜こうともがく。

しかしイエッタは涼しい顔で、それを許さなかった。

男達の目に恐怖と後悔が溢れはじめた時、
「ぱき」
乾いたような音がした。イエッタがようやく手を開くと、ナイフ を取り落とし、二つの手首がだらりと奇妙な角度で垂れ下がった

「…いぎいい、いいいい!」

まともではない声がした。二人の男はへし折れた手首をかき抱き、 蹲って、悲鳴を上げながら泣きはじめた。

「…」

イエッタは表情も変えず、泣きじゃくる男達を見下ろしていた。 嘲笑も恫喝もない、静かな、圧倒的な力が、男達を裁いた。

「い、イエッタさん…」

ベルリナが震えながら、イエッタに寄り添った。あたふたとイリ ナも駆け寄り、その肩を抱いて、震えを抑えようとした。

イエッタが振り向いた。悲しい顔をしていた。

「はい、どいて!下がって!」

野次馬をかき分けながら、その時警官が現れた。辺りを見回して からイエッタに近づき、横柄に手を差し出して、「身分証明書を」 高圧的に言い放った。答えるかわりに、イエッタは、拳を揃えて 差し出した。

「見ればわかるでしょう。
 私がやりました、逮捕してください。抵抗はしません」
「何い?」

奇異なものを見る態度をあからさまにして、警官がイエッタを睨 みつけた。若者に劣らない無礼な態度に、ベルリナが怒りを覚えた。

「待ってください!この方は、わたくしを助けてくれたのです!」

少し芝居がかってはいるが、毅然とした声をベルリナは放った。
その手にはいつの間に出したのか、ERの市民であることを示す市民 IDカードが輝いていた。イリナも助太刀しようと、自分の市民IDカード を取り出し、護符のように並べて掲げる。

カードには顔写真の横にいくつかのデータが書いてあり、一番下には自らのサインが入 っている。IDの中には本籍や健康状態や各種経歴などの情報が入力され ておりルフィル市民なら誰でも持っているだろう、汎機能のIDカード だった。

「はいはい、じゃあ、これ拝見します」

いかにも面倒そうに、警官がベルリナの、次いでイリナのカード を、ペンくらいの大きさのスキャナーでなぞる。そこで読み取った 情報は、即座に警察のデータベースへ照会されるのだった。大抵の 個人情報は出てくるので、口頭の職務質問より手軽といえた。

「はい、けっこ…」

警官が言葉を飲み込んだ。イリナのIDを読み込むとスキャナーに ついた小さなパネルに、一回では収まりきれないほどの言葉が、耳 障りな電子音とともに表示された。

「特記事項0417により、このIDへのアクセスは拒否されました。
 貴官のアクセスコードを凍結、この行為を監察部へ報告しました。
 至急本庁へ出頭しなさい。忌避には懲戒が行われます」  

小刻みに震えだした警官に、ベルリナも、イリナも、イエッタも 怪訝な視線を投げかける。激しく首を振ってその視線を振り払った 警官は、指がこめかみに食い込むような勢いで最敬礼すると、 「し、失礼いたしましたあっ!!」 その時到着した、応援の警官が立ち竦むほどの声で絶叫した。

横柄な態度はとっくに消し飛び、怪物に出くわしたような血相で、 警官は応援に二言三言囁き、気絶から覚めない一人と、泣きじゃく る二人を引っ立てて、あたふたと雑踏に沈んでいった。その大きな 背中が消えるのを見送って、「ふーっ…」全員が大きく息を吐き出 して、肩の力を抜いた。

「ありがとう。助かりました」

イエッタが丁寧に礼をすると、ベルリナは慌てて首を振った。

「とんでもない、礼を言うのはわたくしの方ですわ。
 それにしても不思議なこと…初めてですわ、あんな反応をされたのは」

「う、うん…ボクも、初めて見た」

イリナには検討が付いていたが言えなかった。イリナ・クィンスを調べようとする者は何かしらの妨害が入るようになっているのだ。イリナに対する保安対策の一環とも言える。

「ID情報で私達の身の潔白が証明されたのかな?」

「そうかもしれませんね。私は持ってないから…」

えっ、とイリナとベルリナが顔を見合わせた。
「イエッタさん、IDカードをお持ちでないのですか?」

イエッタは言葉に詰った。いかにも答えにくそうだった。

「それは…ああ、へ、部屋に忘れてきちゃったんです」

バツが悪そうに、イエッタは頭を掻いた。

「…帰りましょう。なんだか、疲れました」














華やかな通りを外れ、三人は無言で歩道を歩いた。イエッタは少し 俯いたまま、先頭に立っていた。イリナも、ベルリナも、会話のき っかけを見出せないまま、もやもやした気分を、胸の中で持て余 していた…

妖精館に帰ってくると、「ありがとう。今日は、楽しかった」
それだけ言って、イエッタは部屋に消えた。

…その背中を見て、なんだか寂しいな、とイリナは感じた。
イリナとベルリナは食堂に立ち寄り、簡単に食事を済ませた。

「では、わたくしは部屋に戻ります…」

一礼するベルリナとも別れ、イリナの足は、ふらりとある部屋に 向いていた。

「管理室」

素っ気無いプレートがドアに張ってあるだけのその部屋では、い つでも数人のスタッフが詰めている。施設の管理や各種の手配、妖 精達のスケジュール管理から体調のチェックまで、多岐に渡る雑事 をこなす、地味だが無くてはならないセクションだった。

「今日休みたい?問題ないわよ。イリナちゃん頑張ってるものね」

そばかすが自称チャームポイントのオペレーターが、陽気に笑っ てキーを叩く。

「はい、これでOK」
「ありがとうございます」

イリナは頭を下げた。そして部屋を出ようとした時、「あ、イエッタ さんからも休み申請出てる…これもよし、と」オペレーターの独り言 を、イリナの繊細な耳は聞き逃さなかった。

イリナは部屋に戻り、シャワーを浴びた。そしてソファに身体を 預け、あの勤勉なイエッタが休んだ理由を、ぼんやり考えた…その うちに陽が沈み、まどろみの中に落ちたイリナを残して、妖精館は 目覚めた。笑い声が、足音が、ドアの向こうからかすかに聞こえて くるなか、イリナの部屋には、誰にも聞こえない、イリナの微かな 寝息だけが流れていた。

「…ん」

イリナが目覚めたのは、午前二時。さすがに妖精館の中にも、沈 黙が満ちていた。今ごろあちこちの部屋の中では、泊まりを決め込 んだ客が、お気に入りの妖精と甘い夢を見ているのかもしれない。
昨日はイリナもそうして過ごした。

しかし今夜のイリナは、胸騒ぎを抑えられないまま、部屋の中を 落ち着かなく行き来していた。

彼女は優しい。力も強い。しかしあの力は尋常ではないし、刃物 を持っているからといって、その手首を何のためらいもなく折る酷 薄さは、いつものイエッタからは想像などできない。
そして、あの悲しい顔の訳も、イリナは知りたかった。

 彼女の声が聞きたい。
 彼女のことが知りたい。

気がつくと、イリナはイエッタの部屋の前に立っていた。ドアの 隅に灯っている緑色のランプは、入室可能な事を示していた。もう 起きてはいないだろうかと思いながらノックをすると
「…どうぞ」
すぐに返事があったので、イリナはほっとしながらドアを開けた。

部屋の照明は薄暗くしてあった。ドアから入った光がそれを押し 退け、一筋の道をイリナの前に作る。イリナの影が、その道の真ん 中に立っていた。光の道の中で、なにかが、いくつも、キラリと光 った。イリナが目を凝らすと、それは酒瓶だとすぐに知れた。
本来客と飲み交わすため、部屋に置いてある酒。それをイエッタ は、すっかり飲み干してしまったらしい。

ドアを後ろ手で閉めて、酒瓶に躓かないよう気をつけながら、イ リナは薄闇の中を進んだ。部屋の空気に、アルコールが濃く溶けて いて、深呼吸をすればたちどころに酔いそうな気がした。 ベッドの上には、大の字になってイエッタがいた。

「ああ、イリナさんですか…何か?」

声に陽気さを交えて、イエッタはそう言った。あの悲しい顔は見 当たらず、上気した頬と、酒のにおいがする唇を、笑いの形に歪め、 さも気分良さそうに、酔っていた。

「急にごめんなさい。…その、イエッタさんの顔が見たくなって」
「それは光栄ですね。ごゆっくり」

自堕落に寝転んだまま、面倒そうにイエッタはそう言った。

「お酒…飲んでますね、たくさん」
「私だって酒くらい飲みますよ、今日は思い切り飲みたいんです」

ふふふ、とイエッタは笑った。
その笑いがおかしくも何ともないことを、敏感にイリナは見抜いた。

「飲みますか?もうあまり残ってないけど」

イエッタが枕もとを探り、手に触った酒瓶の口をイリナに向ける。 イリナはその手を押しとどめ、丁寧に断った。 最初から飲ませる気などなかったように、イエッタはそのまま、 瓶から直接飲んだ。喉の鳴る音が、嫌な音に聞こえた。

「はい、おしまーい」

イエッタは瓶を乱雑に放った。瓶は辛うじて厚いカーペットの上 で割れるのを免れ、先に転がっていた仲間達に混じっていった。 イリナは悲しくなった。胸がきりきりと痛んだ。 イリナは無言でベッドの隅に座り、大の字になって茫洋と笑って いるイエッタを見つめていた。部屋の空気は酒いきれで澱んでいた。

「…朝が来たら、ここを出ます。お別れです」

酔いを微塵も感じさせない声で、不意にイエッタは呟いた。

「どうして?」

イリナは当然の質問をした。

「昼間、あなた達に迷惑をかけました。
 彼らが証言すれば、私はマークされます、
 そうなればあなた達にも更に迷惑が及ぶかもしれません。
 …IDカードを忘れたなんて、嘘です。持っていません」

「どうして?」

同じ言葉を、声のオクターブを上げて、イリナは放った。その胸 が、ざわざわした予感を感じ取っていた。

「ああ、もう隠すのも面倒ですね…お別れの前に、
 少し、お話しましょうか。私のことを。聞きたいですか?」

イリナはどんどん大きくなる胸騒ぎをこらえて、頷いた。

「では、お話しましょうか…」

イエッタは起き直り、イリナを見つめて話しはじめた。

「私はもとからルフィルの、ERの人間ではありません。
 ERの人々が通商連合と呼んでいる、その中の軍に私はいました。
 …もっとも、志願したわけでなく、軍に入らされたんですけどね」

「入らされた?」

「そう。ある街で生まれ育った私は、事故に遭いました。
 そして、軍の医療センターに運びこまれたのです。
 …そこで私は選択を迫られました。
 このまま死ぬか、それとも、実験体として生きるか」

イエッタの顔が、自嘲をはらんで歪んだ。そして言葉を続けた。

「あの時死んでいればよかったかも、と今でも考えます。
 しかし、私は生を選んだ。選んでしまった。
 軍は私の身体を、新技術の実験台にしました…
 強く、早く、確実に、人を殺す兵士を造る為の」

「…!」

イリナの胸騒ぎが、激しい動悸に変わった。冷たい汗が、背中を 流れた。

「それはたしか、バイオニック・ブースターと呼ばれる技術でした。
 名前の意味はよく知りませんが、とにかく私は力を得た。
 テストに合格するたびに、いろいろな人が誉めてくれました。
 私のテストの結果を応用して、仲間もたくさんできました」

仲間、という言葉が出たとき、ふとイエッタの顔が和らいだ。し しそれもすぐに消え、淡々と言葉を紡ぎ続けた。

「私は、有頂天で毎日を過ごしていました。
 もう餓えも悲しみもない、素晴らしい世界に私はいるのだ、
 私は選ばれた人間なのだ…おかしいですね、本気でそう思っていたんですよ」

それから数分、部屋に沈黙が満ちた。何度もイエッタの溜息が聞 こえた…言い渋るように、また、決意するように。

「私は、いえ、私達は強かった。
 誇り高い戦士として、最強の兵士として、
 戦場へ踏み出す日を今か今かと待ちわびていました。
 ですが…知らない間に私達は、政治の道具にされていたのです」

「…」

イリナは全身に緊張を漲らせていた。言葉を懸命に聞いていた。

「詳しいことは何も聞かされませんでしたが、
 軍のどこかで争いが起きました。

 毎日のように矛盾した命令が届き、
 私たちは何を信じていいか解らなくなりました…

 肉体はいくら強くても、心が脆ければ意味がありません。
 不安が疑いに、疑いが裏切りに変わり」

イエッタは唾を飲み込んで、
「ついに…仲間同士で殺しあうように…なってしまったのです」

イエッタはかっと目を開くと、震える両手をじっと見た。

「私も戦いました。殺しました。
 そうしなければ、殺されるから…
 この手で…この力で…私は…仲間を…」

血が滲むほど拳を握り、ちぎれそうな声で嗚咽を漏らす。その嗚 咽に混じり、歯の軋む音が、イリナの耳に届いていた。














また、歯の軋む音がした。
いや、違う。
肉だ。
肉の軋む音が、イエッタの身体から聞こえているのだ。
骨が鳴る音も、なにかが伸びるような、湿っぽく、耳障りな音も、 聞こえる。

イエッタが立ち上がった。
そのまま数歩歩き、部屋の真ん中に立ち、着ていたシャツとズボ ンを、下着を、脱ぎ捨てた。

「見ていてください…」

イエッタが呟く。その髪から黒の色が消え、かわりに皮膚が、白 から、闇を搾り出したような黒へと変わってゆく。そして髪は、刃 じみた銀色に染まってゆく。

肉の軋みが一際大きくなると、肩が、腕が、腿が、足が、乳房す らも、肉の密度を急速に増していった。 肉の軋みが止んだ。イエッタの身体から、音が消えた。 銀と漆黒に彩られた、人の姿をした魔剣が、そこには立っていた。

「これが、私の本当の姿。本当の、イエッタ・クラインです」

その声だけは、いつもの優しい声だった。

「この力があれば、何でもできる。世界を変えることだってできる。
 そう思っていました。仲間を殺す、あの日までは」

イエッタが足もとに転がっていた瓶を拾った。両手で握った。

「でもね、」

瓶が音を立てて、二つに割れた。それを両手で包み込み、揉み手 をするような動作を繰り返すと、酒瓶はきらきら光るガラスの砂に なって、イエッタの手から零れ落ちた。軽くはたいてその砂を手か ら落とすと、そこには傷一つ無かった。

「それは誤りでした。私は化けものに生まれ変わっただけでした…
馬鹿げた力しか持たない、人殺しの上手い、化けものにね」

 イリナが震えていた。
 恐怖からではなかった。
 イリナは悲しかったから、切なかったから、震えたのだった。

「逃げ回って、いろんな事をして、ルフィルに来てみましたが…
 私には過ぎた所でした。彼らの手首を折りながら、
 その音と感触を楽しんでいた私は、やっぱり化けものでした。
 こんな素敵な街に、いてはいけない、化けものです」

イエッタが窓に歩み寄った。
カーテンを払うと、蒼い月の光が、イエッタの裸体を照らした。
魔獣が己を呪い、月に向かって哭いているように、見えた。

「でも、私はここに来てよかった。
 妖精館のみんなに、会えてよかった。
 その思い出だけあれば、私は幸せに死んでゆける…」

もう一度、イエッタがイリナの方を向いた。かすかに笑い、 「この身体だと、朝では目立ちますね。だから、もう出ます」 さよなら、と小声で言って窓へ向き、飛び出そうと手に力を込め た時、「逃げるの?」 鋭いイリナの声がした。熱い怒りの混じった声だった。

その声に圧されたように、イエッタが動作を止めた。

「…そう、逃げます。でないと、あなた達に迷惑がかかるから」

イリナの足が床を蹴った。ありったけの脚力でイエッタに駆け寄 ると、振り向いたイエッタの頬を右手で打った。

「!」

イエッタに激痛が走った。
身体にではない。心にだ。
同じように激痛が走っただろう手首を押さえて、顔を歪めながら イリナは声を絞り出した。

「そうやって、逃げて、どこへ行くの?
 力があるなら…変えられると思っているなら…
 どうして自分を変えないの!」

「…」

イエッタは呆然とした。初めて言われた言葉だった。
「ファリアさんが、イエッタさんを、ここに迎えたのは…
 きっと、イエッタさんに変わってほしかったから。
 新しい自分を、見つけてほしかったから…そう思います」

「…」

イエッタの瞳が、落ち着かなく震えていた。打たれた頬を手で押 さえ、魔獣はか弱い人間にもどったかのように、立ち尽くしていた。 イリナは自分の服を脱ぎ始めた。たちまち下着まで脱ぎ捨てると、 薄闇に映えるような純白の裸体が現れた。

「過去は変えられない。でも、未来は変えられる。
 イエッタさん…未来から逃げないで…お願い…」

イリナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。その涙を拭いもせずに、 イリナは身体をそっと進め、優しく、イエッタをかき抱いた。

「イリナ…さん…」

イエッタの胸を、イリナの涙が濡らした。押し当てられた乳房か ら、イリナの鼓動が伝わり、イエッタの胸を優しく揺すぶった。

「ボク…あなたを抱きます」

イリナが決然と呟いた。
思わずイリナを見下ろしたイエッタの瞳と、顔を上げたイリナの 瞳が、わずかな空間を挟んで絡み合った。
二人の瞳は同じくらい、清く、美しく、澄んでいた。

イリナはイエッタを、優しくベッドに横たえた。続いて自分の身 体を重ね、唇を重ねていった。

「ん…」

かすかに甘い吐息が漏れた。イリナの唇が巧みにイエッタのそれ をとらえ、包み、柔らかいエクスタシーを送り込んだ。自然に舌が 絡みあい、キスが深くなってゆく…

唇の戯れをやめないまま、イリナの手がイエッタの乳房に伸びた。 禍々しい印象すら与える、硬いそれを、イリナの手はあくまで優し く揉みしだいた…丹念に、丁寧に。

熱を帯びたイリナの手が、イエッタに興奮を送り込んだ。乳首が 柔らかく起き上がり、イリナに愛撫をせがんだ。もちろん、それを 見逃すはずもなく、イリナはキスを唇からそれに切り替えた。

「…あ…」

イエッタの口から甘い息が漏れる。娼婦として抱かれるときに感 じるものとはまるで違う、極上の快感が、彼女に訪れていた。

小さな音を立てて、イリナがイエッタの乳首を吸い、口の中で転 がし、絡める。指も休ませず、片方の乳首を攻める。たっぷりと乳 首を味わったあと、イリナは再びイエッタの唇を吸った。 緩やかに瞳を閉じたイエッタは、甘美なキスを受け止めていた。

「イエッタさん…きれい…とても、きれい…」

耳元でそう囁きながら、イリナは手をそろそろと、イエッタの太 腿に伸ばす。白い指が、浅黒い肌をなぞり、進んでゆく。その指を 待ちかねて、イエッタが軽く足を開くが、イリナはじらすように、 太腿や膝の方まで指を行き来させる。かと思うと一気に乳房やうな じまで戻り、しつこいくらいの愛撫を繰り返すのだった。

イエッタが、甘えるような声を漏らす。身体が快感を求めてうね り、その腕がイリナにまといつく。

「ね…イエッタさんって、こんなに感じられるんだよ…
 素敵でしょ…ボクと同じように、気持ちよくなれるんだ…よ…」

諭すように語りかけながら、イリナはイエッタの手を、自分の股 間に導く。そこは既に、暖かい蜜で潤っていた。

「あたたかい…」

イエッタが素直な感想を告げる。イリナは頷くと、「イエッタさんも…」 指をそうっと、イエッタの花園に差し入れる。ねばついた音がし て、たっぷりと蜜がイリナの指に絡みつき、糸を引いた。 それからしばらく、二人はお互いを探りあった。

お互いを全て知るかのように、イリナの指が、イエッタの指が、 精一杯の愛情を込めて、快感を生み、増やし、送り込む。それぞれ の肉芽は硬くしこり、もっと、もっと、と愛撫を求める。溢れる蜜 が指を滑らせ、激しさを増しても痛みを与えない…切れ切れな嬌声 を上げながら、二つの肉体は、美しく絡み合っていった。

「もっと…あげるね…」

イリナが艶がかった声で宣言すると、その身体を滑らせた。じっ とりと汗ばんだ身体に、新鮮な空気が触れる。その心地よさを感じ たのもつかの間、「ちゅっ」 肉芽を吸ったイリナのキスに、イエッタは腰を浮かせ、「あんっ!」 大き目の嬌声をあげた。

「ちゅっ、ちゅう…ん…ぷ…」

イリナのキスが、舌が、指も、イエッタを攻め立てる。いやいや をするように首を振り、快感を叩きつけられたイエッタが喘ぐ。

「イ…リナ…」

イエッタが呼ぶ。イリナを求める。それをイリナは敏感に察する と、身体を大きく移動させて、自らの花園をイエッタに預けた。

「はあ…」

イエッタが待ちわびたように、イリナの中に舌を差し入れる。蜜 を舌で掬い取り、口の中で味わい、甘美なワインのように飲み干す。
イリナの愛撫が訪れるたび、同じところをイエッタは愛撫した。

「あ…ああ…くふっ、う…」
「っは…んん…きゅうっ…」
粘液のはぜる音と、二人の喘ぎが、部屋の空気に溶けてゆく。イ リナの蜜が、イエッタの滴が、空気に香ってゆき、鼻をくすぐる…

「も…う…だめえ…」
「ボ、クも…ああっ、あ…っ、…っ、…っっ!!」

磨きぬかれたエクスタシーが、遂に臨界を越えた。身体の奥底か ら蜜を噴き出し…イエッタとイリナは…同時に…果てた…。

頬を撫でる風に、イリナはふと我に帰った。顔を動かさないまま、 目で景色を追う。 部屋に、朝の光が差し込んでいた。その光を受け、酒瓶達が輝い ているのが、どこか滑稽なようにイリナには思えた。

イリナの耳に、イエッタの寝息が届いた。その邪魔をしないよう に、そーっと身体を起こしてベッドから降りたイリナは、イエッタ に、あの鮮やかな黒髪、高い背としなやかさを持つ肢体に戻ってい るのを確かめ、安堵した。

「…おはようございます」

イエッタが、目をうっすら開きながら、挨拶した。

「おはよう、イエッタさん」

何気なく、イリナも挨拶をする。

イエッタは自分の身体をそっと撫で、あの猛々しい肉体が鎮まっ ているのを確認すると、深い、深い、息を吐いた。

「イリナさん。一つだけ、質問があります」

「なに?」

「私は…ここにいて、いいですか?」

「もちろんだよ。ここにいて。
 ずっと、ここにいて…新しい自分を、見つけて。
 ボクも、出来る限り…力になるから」

イエッタが慌てて目を手で覆った。涙を見られたくないらしかっ た。

「…自分を変える方法は、まだわかりません。
 でも、探してみようと思います。この街で…ここで」

イリナは大きく頷き、イエッタの手にそっと自分の手を重ねた。 その手から、暖かいエネルギーが、イエッタに注がれていった。 イエッタの身体に力が満ちた。と見る間に、その身体が起き上が り、あっと思う間もなく、イリナを軽々と抱き上げた。イリナは腕 をイエッタの首筋に絡め、騎士に抱かれる姫のようなポーズをとっ ていた。

「一緒にお風呂に入りましょうか?綺麗に洗って差し上げます」
「うん。ボクを綺麗に洗うがよい」
「かしこまりました」

イリナとイエッタは顔を突きあわせ、賑やかに笑った。

「いってきまーす!」

元気一杯に、イリナが大学へ駆けてゆく。

「ま、待ってください〜」

ベルリナが必死に追いかける。そんな二人を、妖精館の玄関で、 手を振りながらイエッタが見送る。二つの影が道の向こうに消える まで、その静かな、黒い瞳が、見守っていた。

イリナが角を曲がり、路肩に停車していたセダンの横を追い抜く。 磨かれたボディが、イリナの姿を一瞬写す。その中から、イエッタ のように、イリナを見守る瞳があった。

「…ひとまず、峠は越えたようね」

そのセダンの中は、妙に暗かった。外から見える車内の景色とは まるで違う。何か特殊な仕掛けがあるらしかった。

「しばらくは様子を見ましょう…
 ルフィル市民としての登録と、IDカードを与えます。
 ファリアに、そう伝えて」

「了解」

暗闇の中で、切れ切れな会話が交わされていた。

「ケアについては?」

「問題ありません。連中は治療し、事件を忘れさせてあります」

「よろしい…車を出して。帰ります」

「了解」

セダンが発車した。その時横を通った、ベルリナの吐息の方が大 きいくらいに、静かに、するすると加速していった。

「イエッタ・クライン…第一期強化兵士、最後の生き残り…か」

セダンの中で、誰に言うでもない、曖昧な声がした。
偽の景色を閉じ込めて、セダンは道を、滑るように走っていった。
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