■ EXIT
黒江大佐の憂鬱2−後・蓋をひねれば琥珀の愉悦
神戸市にある英国領事館。ここの影の主である副領事に呼び出された、クロード・ ウィンスレイド大尉は やや緊張の面持ちで副領事と対面していた。 対プロシア関連の任に就いていた彼にとって日本は、「青島の東に位置する島国」と いう程度の認識しか 持っていなかったが、駐在武官として赴任して以来半年、それなりに日本を研究して いたつもりであった が、未だに帝国重工なる存在の謎に迫れない状態なのだ。 「凄腕と聞いていた君には期待していたのだが、何ら具体的な成果が得られていな い。何か言い分はある かね?」 予想通りの愚問だと思いながらウィンスレイドは答える。 「まず、此処は東洋の果てであり、ヨーロッパ人である我々の行動は非常に目立ち、 隠れての行動が不可 能なことです」 「それは他のアジア諸国でも同じだと思うがね?」 「開国してからの歴史が違います。アジアの大抵の国には、華僑組織が社会の最下層 を牛耳る構造ができ ていて、それを利用する事で事態の進展を図ることが可能でしたが、この国にはチャ イニーズマフィア組 織はまだ無いようです」 「では、この国本来の犯罪組織とかはどうかな?使えないのかね?」 「犯罪組織を公称する馬鹿は居りませんが、この国にも社会からはみ出した最下層を 取り仕切るグループ は存在しています」 「では、それらと結託するという選択肢もありえる訳だな」 「どうでしょうか?」 そう言って、ウィンスレイドは手にしていた動画(活動絵画)のパンフレット2冊を テーブルの上に置いた。 「これは、何かね?」 「この前の休日に、日本を研究するために鑑賞して来たものです」 「『クニサダチュウジ』に『シミズノジロチョウ』とな」 帝国重工が外国人向けに作成した動画パンフレットには、英仏独露の四カ国語で説明 が印刷されていたが、 副領事も漢字くらいは読めた。 「どちらも、この国の侠客…つまり、社会の最下層を占める荒くれ男らをとりまとめ る、いわゆるマフィア 組織のボスです。チュウジは今世紀初めから今世紀中盤までに存在した史実の人物 で、ジロチョウは30年 前の政変時期に活動していた人物です。」 「で、どうなのかね?手を組む手がかりなりが見つかったかね?」 「無理ですね。動画で描かれている内容が、全て史実どうりとも思えません。多少は 脚色されているもの と思いますが……」 「そりゃ、庶民向けの娯楽作品だからな」 「彼らは非常に高潔な人物として描かれています。我が国の例で喩えるなら、彼らは 『ロビン・フッド』 です」 「『シャーウッドの森の』かね?」 「はい。史実の彼らが、動画に描かれている通りに高潔な人物であったかどうかは判 りません。しかし、 この国の大衆は、社会の最下層に生きる荒くれ者にすら、『人徳』を求め、彼らもそ の期待に応えよう という気概を持っているようです。『チュウジ』や『ジロチョウ』以外にも架空の人 物『モリノイシマツ』 『タカクラケン』『スガワラブンタ』などが活躍する動画があるようですが、皆『弱 きを助け悪しきを くじく』というパターンを踏襲しています。 シナのように、売国奴の入り込む余地はあまり無いと考えざるを得ません」 「何故だ?」 「日本の国民は、非常に建て前を大事にするのです。そして、本音は外部に対して押 し隠す。それがこの 国の美意識です。さらには、地位の高い者、力を持つ者ほど本音を見せず隠し通す。 それが、この国の美 徳のようですから」 戦前の日本が、中国大陸でうまく立ち回れなかった遠因のひとつがここにあった。 日本は古来、中国からその文化を学んできた。唐宋の時代から医学や法律その他。そ もそも文字を教わっ たのは中国からなのだ。 そんなわけで日本人は中国に対し、「正義と秩序が法と公権力によって守られてい る」という幻想を抱い ていた。 もちろん、実体はそんなモノではなく、あらゆる暴力と悪徳が支配する社会であった わけであり、その中 で日本人が期待する法を守り公権力を行使するのは、外国から派遣されてきた軍隊だ けだった。 日本は仕方なく軍を送り込み、その深みにはまり、社会の秩序を維持しようとする者 の常として、社会に 不満を持つ大衆の怨嗟の対象となっていったのである。 ところが、イギリスの場合は事情が違った。 そもそも中国に対して、文明国家としての幻想など抱いていない。どころか、野蛮な 後進国だと信じてい るから、法や公権力になど何も期待しない。 役人は賄賂を渡してイギリス人のために便宜を図る存在でしかなく、実力組織として 青幇を認め、これと 結託して地域支配を固めて収入を確保する。 軍を介入させて民衆の恨みを買うような、コストの悪い事はしないのだ。 しかし、そういった手段は日本では通用しなかった。 役人が「無私」で働くことが良い事であると、建前だけでなく本当に信じられてお り、任侠集団が社会の 底辺をすくい上げる組織として期待され、その機能をちゃんと果たしているのだっ た。 「帝国重工には付けいる隙がないという事かね?」 「そうは言いません。要するに『蛮国』相手の手が使えないから、欧州の列強国家に 対するのと同じ方法 を使うだけです。 ただし、少々ばかり費用が嵩みそうですが」 「何か突破口があるのだな。金のことは構わん。成果が見込めそうなら金に糸目はつ けん」 ようやく建設的な話ができるようになったと、ウィンスレイドは切り出す。 「帝国重工が、京都の山崎にウィスキーの蒸留所を建設しました」 「ほぅ、猿真似でスコッチを作るつもりかな?」 「建設を行ったのは、鳥井という人物が発足させた『壽屋(ことぶきや)』という会 社ですが、裏に帝国 重工が居る事は間違いありません」 「何故、言い切れる?」 「蒸留所に併設して菌類・微生物研究所が設置されていますが、そこの職員に研究副 主任として野口とい う医学生が配されています。この人物は新作動画の試写会会場において帝国重工幹部 に、自分を売り込ん だ男です。 その幹部もこれを快諾したと、東京日々新聞の記者がこれを目撃しておりました。つ まり、研究所は帝国 重工の施設であることが確信できるのです。 おそらく、ウイスキーの蒸留所はダミー施設でしょう。私は付置研究施設の菌類・ 微生物研究所の方が メイン施設で、蒸留所はそれを隠すための存在と考えます」 「根拠は?」 「まず、ウィスキーの製造を始めようというのに、我が国になんらの技術援助を求め ておりません。いく ら物真似が得意な日本人でも、真似る手法を知らねばどうにもならない筈です。 つまり、ウィスキーの製造は真の目的を覆い隠すための欺瞞工作であると判断しまし た。 壽屋は、シェリー酒の空樽(ウィスキーの貯蔵に用る)を注文していたようです が、そんな工作には 騙されません」 「なるほど、だがこの国の酒造施設で菌類の研究をするのは、少しも変では無いぞ。 この国の酒は穀類の デンプンの糖化に麹黴という菌類を使う。 我が大英帝国の技術援助なしにウィスキーを作ろうって連中だ。モルトを作るのに、 奴らの伝統手法を 使おうと誤った考えを持っていても変ではなかろう」 「仮に帝国重工が真面目にウィスキーの蒸留を考えていたとしても、研究所が重要な 調査対象である事に 代わりはありません。彼らが紀伊半島に貝類の研究施設を作った時、誰も何も警戒し ませんでした。 しかし、彼らはあっという間に成果を上げて、真珠の養殖技術を完成させたのです。 そのために我々ヨーロッパ人がペルシャ湾に長年、多大な経費を掛けて構築した真珠 コネクションは あっという間に壊滅させられてしまいました」 あえて説明しておくが、帝国重工は真珠養殖に関して特に技術援助を行ってはいな い。彼らが行った のは、技術を盗窃されないように保護することと、完成した真珠を商品として欧米に 売り込む際の広告 宣伝であった。技術は元からこの明治の地に存在した。 まぁ、英国人に勘違いされても仕方がないけれど。 「まさか、日本製のウィスキーがヨーロッパの市場を席巻して、我らがスコットラン ドの伝統の蒸留所が 倒産するような事態が来るとか考えて居るのかね?あり得んよ。そんな事は」 「ですから、蒸留所はダミーだと申し上げておるのです。帝国重工が頒布している 『先進科学』を本国の 科学者が検証した結果、帝国重工では将来のモータリゼーションに燃料としてエチル アルコールを利用 しようと考えていると示唆されました」 「内燃機関?ドイツの研究ではガソリン燃料が本命だと聞いたぞ」 「ガソリンの元と成る原油は世界中に埋蔵量が偏在しています。自国の勢力圏内に原 油の油井が無い場合 を考えれば、将来性はどちらに軍配が上がるか判りません。それに石油はくみ上げて 使えば最後は無く なります。しかし、アルコールならば、畑から穀物が収穫される限り、無尽蔵に利用 できます」 「だが、あまり燃料用のアルコール生産に穀物資源を振り向けると、肝心の食料生産 が疎かになる」 「その点は帝国重工も考えているでしょう。いや、収穫量を倍増させるような新種の 穀物を開発するかも しれない」 「それは人類の夢だな」 「は?」 「穀物の収穫を倍にする作物だよ。そんなモノが出来たら地上の土地を奪い合う戦い は無くなるかも知れ ぬな」 「駄目でしょうね。有り余る食料をため込んで腐らせる国がある一方で、貧しい国で は貧者が飢えに苦しむ。 その構造は未来も変わらないと思います」 「ふむ、まぁ良いだろう。山崎の蒸留所だか菌類研究所だかが、帝国重工にとって重 要な施設だと仮定 しよう。 で、どう攻めるね?」 「職員構成を調査したところ、先ほどの野口研究副主任が付けいる隙になりそうで す」 「ほぉ、手応えありか」 「彼は、売国奴ではありませんが、どうも金銭感覚がおかしいところがあります。彼 に散財させて、 金を貸し与えて返済で情報を求めるという方法で攻めてみせます」 「オーソドックスな手だね。まぁやってみ給え。いくら入り用だ?」 「とりあえず、四百円。後は一ヶ月ごとに百円ずつ半年」 「さて、野口君に壱千円の価値があるかどうか?」 「必ず成果を見せます」 一月後 「閣下。野口との接触に成功しました。彼を遊興に誘って散財させる計画を着々と進 行中です」 「それは幸先良いね。他には何か?」 「いえ、特には。それよりも、蒸留所が建っている場所、山崎について調べたのです が、奇妙な事が 判りましたよ」 「何だね?作戦に支障がでそうな話かね?」 「そうではありません。この国のことをもっと良く知ろうと日本の歴史を調べていた のですが、そこは 古戦場らしいんです」 「この前の内戦(戊辰戦争)では無いな」 「はい、凡そ三百年以上前の戦いです。この国を支配していたオダ・ノブナガが部下 ミツヒデの反逆に あい弑逆された後に、やはり部下のヒデヨシがミツヒデと後継を争った戦いが此処で あったらしいのですが」 「何か気になるのか?」 「ミツヒデは『コレトウヒュウガノカミ』と言って、今の宮崎県あたりの領主なんで す。 そしてヒデヨシは『ハシバチクゼンノカミ」といって、今の福岡県あたりの領主。 何故二人とも九州島の地方領主なのにこんな場所で戦争をしたのでしょうかね?」 「京都に近いからではないかな?」 「なるほど」 ウィンスレイドは膝をポンと叩く。 「実権から離れているとはいえ、当時京都はテンノーの都だ。30年前の政変でもテ ンノーから下賜された 『錦の御旗』によって、反乱軍だったチョーシューが正統政府軍として扱われ、バク フが賊軍と扱われた。 なるほど、テンノーを味方にするために、二人とも京都に登って来て戦ったのだな」 ちょっと勘違いしているウィンスレイド大尉であった。 更に二ヶ月後 「野口から極秘書類の存在を聞き出しました。蒸留所所長室の金庫に納められてお り、限られた者にしか 閲覧が許されず、持ち出しも禁止の重要書類だそうです。 内容については未確認ですが、所長が語ったところによると『高野一族による重大 な犯罪の記録でも ある』との事でして、入手の方法を検討中です」 「でかした!高野一族といえば、帝国重工総帥の高野のことだろうから、彼らの犯罪 記録が入手できれば、 色々と使える。工作資金が必要なら追加しても良いぞ」 「では、小型高性能の写真機を準備してもらえますか。書類が持ち出せない以上、写 真に撮って持ち出す しかないのです」 「判った。手配しよう」 三週間後 「閣下、野口が撮影した極秘書類のフィルムを入手しました」 「フィルムだけ?写真機はどうなった?」 「野口の話では、撮影が済んだ後で質屋に入れて、芸妓と飲んだそうです」 「なんとまぁ、高かったのに。まぁ良い。これで高野の弱点が突き止められるなら安 いものだ。 すぐに現像してくれ給え」 三時間後 「閣下、写真の現像が上がって来ましたが……」 「何か問題があるのかね?」 「これです。ご覧になってください」 副領事はウィンスレイド大尉が運び込んだ印画紙の束を見た。 「何だこれは?」 ウィンスレイドに命じられて、野口が撮影した帝国重工の極秘文書。 そこには墨跡鮮やかな毛筆で、達筆な草書体の字が並んでいたのだ。 「おそらくは、我がアルファベットで言うところの筆記体文字だと想像するのです が、閣下は読めますか?」 「こんな蛮族の汚い走り書きが読めるか?君こそどうかね」 「日本人が蛮族かどうかについては、閣下とは意見を異にするところですが、これを 読めるかどうかに ついては、私も同じです」 太平洋戦争において、日本軍が情報を軽視し不利な戦況をさらに悪化させたことは有 名であるが、これを 弾劾したいがために、明治期の日本軍の情報戦略をことさら持ち上げる手合いがい る。 曰く「明治の日本軍は情報戦に意を尽くしていた」と。もちろん、それは過大評価で ある。 注意せねばならないのは、貴重な情報の入手には『お金がかかる』という事である。 貧乏な明治日本が情報の入手に潤沢に予算を割ける筈もなく、第三軍はろくに偵察も 行われていない旅順 に突撃して損害を増やし、東郷長官はバルチック艦隊の行方を求めて悶々する日々を 送らなければならなかった。 もっとも、秋山支隊が得た情報が司令本部でないがしろにされ、敵の攻撃に対処しき れなくなる等、入手 できていた情報の運用でも問題があったのも確かであろう。 では何故、情報戦に全力を注げなかった日本が大国ロシアに勝利できたのか? それは「ロシアが日本以上に情報を軽視していた」からに他ならない。 ロシアは満州に数十万の兵力を投入しており、その中には日本語が読める人物が何十 人も居た。だが、 彼らのほとんどは「印刷された活字の日本語が読める」だけで、「手書きの文字が読 める」者はたった 一人しか居なかったのである。 ローマ字にも活字体と筆記体があるが、筆記体が読めない人間が情報収集の任に当 たっていたようなもの である。また、当時はまだ邦文タイプライターは発明されておらず、出版社が発行す る印刷物以外の あらゆる書類は、陸海軍の公文書を含めて全て手書きであった。 もちろん、楷書できちんと書いてあれば活字とそう変わらないので読める文書もあろ うが、将兵の日記や 手帳のメモ書き等が楷書で丁寧に書かれる事は希であろう。 これらの書類がロシア軍の手に落ちても、彼らはこれを有効活用する手段をほとんど 持っていなかったのだ。 戦場においては、犯したミスのより少ない方が勝利する。 日露戦争における日本軍の勝利は、ロシア軍の情報軽視のおかげであると言えよう。 これと同様のことが、神戸の英領事館で起きていた。 もちろん、書き文字程度は読める二人であったが、さすがに草書の毛筆文字を読める 程には日本語には 精通していなかった。 (というか、21世紀では日本人ですら読める人物が少ないであろう) 「日本人なら読めるだろうが……駄目だ。あの高野の犯罪記録だぞ。うかつに日本人 には見せられん」 「もっと日本に詳しい学者に見せて……ジャパン・クロニクル社のパトリック・ハー ン博士はどうでしょうか?」 「駄目だ、奴は何を思ったか日本に帰化してしまった。情報を彼には見せられん」 「では、どうすれば?」 「まずは、もう一枚ずつ焼き増しをして、本国へ送ろう。本国で情報をきちんと管理 しながら日本の事を 研究している学者に見せ、解読させる」 「時間がかかりますね」 「やむを得んだろう。後は君の努力次第だ」 「はい??」 「君が日本語の読み書きを鍛錬して、これをすらすら読めるようになれば問題無かろ う」 「はぁぁ???」 それからウィンスレイド大尉は、神戸市中の墨書家に師事し、書道を学ぶことにな る。 それから八ヶ月後 草書の走り書きに自信をつけたウィンスレイドは、件の文書に挑戦してみた。 「読める。私にも草書が読めるぞ」 「閣下!例の文書。なんとか読めそうです」 「待ちくたびれとったよ。早速解読してくれ」 「はい、『コハ、重大ナル禁ヲオカセシ記録ナリセバ、コレヲ読ミシ者ハ悉ク、口ヲ 閉ザスベシ』……」 「おぉっ!凄いぞ。で、どういう意味なのだ?」 「つまりこれは、重大な犯罪の記録だから、絶対に口外するなと書いてあるんです」 「なるほどな。さぁ、ドンドン読み解いてくれ」 ウィンスレイドが読んだ文書の中には壮大な冒険が綴られていた。 『時は幕末、米国のペリー提督から幕府に渡された、ウィスキーという酒が皇室にも 献上された。時の天皇 はことのほかこの酒に興味を示し、我が国でも作るように高野一族に密命を下した。 天皇は簡単に考えていたかもしれないが、見たことも聞いたこともない西洋の酒を造 るのはいくら高い 技術を持つ高野一族とはいえ不可能だった。天皇の命令を遂行するためには、杜氏を 欧米に派遣し、 ウィスキーの作り方を学んで来させる他はない。 だが、当時の日本は鎖国しており、外国へ出かけることは、例え天皇の密命であって も幕府には通用せず、 重罪だった。 しかし、杜氏らは国禁を犯してでも出国し、技術を学びたいと長老に願い出て、『白 州』『竹鶴』『響』 の三名が遠くヨーロッパ目指して旅立ったのだ。 なお、三名のうち二名が杜氏であり、一名は警護役という事だったが、文書の中では 誰がそうなのか明記 されていない。 何故ヨーロッパなのか?ウィスキーをもたらしたのはアメリカなのに?それについて も説明があった。 曰く「蝦夷地に渡り、更に北へ行けば樺太に達し、樺太から西に渡ればロシアである から、後は陸続きで ヨーロッパへ到達できる。対してアメリカへは大きな黒船に乗っていくしか無いが、 それは絶対に出来 そうにないから、陸路ロシアからヨーロッパへ行くしか無いのだ。 その後の情勢を考えれば、外国船での密航という、より簡単な旅行方法があるわけな のだが、世間から 隠れていた高野一族にはそんな知恵は回らない。 というか、欧州へ派遣される三名は、いずれもダインコート一族と同じロシア系の金 髪碧眼。長崎や横浜 と言った開港地まで行く間、目立ちすぎるのだ。 その点、蝦夷地ならば人の目も少ない。高野一族の船で蝦夷地へ渡れば、このような 心配は要らないのだ。 蝦夷地に渡り、アイヌに混じって暮らしながら北を目指す。そして、樺太に渡り、同 様にアイヌと交わり ながら、ロシア人とも交流して、ロシア語を学習。 ある程度語学を習得して大陸に渡り、そこで準備してきた路銀(砂金粒)が尽きた。 そこで警護役が狩猟で生活の糧を得ながら西を目指した。 そして毛皮商人のロシア人と交渉しながら遂にサンクトペテルスブルグにまで到達す る。 彼らはここが目的地であると勘違いし、ここでウォッカの製造技術を学ぶ。しかし、 完成した酒が無色透明 なので話に聞いていたウィスキーとは違う事を悟り、更に西へと向かう。 やがてノルウェーに至り、海の向こうのスコットランドでは琥珀色の酒を造っている と聞き及び、やっと そこが目的地と確信し、漁船で働きながらブリテン島への渡航を模索する。 そして、遂にゲール語をマスターして金も貯まり、スコットランドの土を踏む。 と、ここまでに十年、 そこで彼らはウィスキー蒸留所の職を求め、ある蒸留所に採用され下働きをしつつ、 ウィスキー製造に 関する技術を学び始める。 身元を怪しまれないよう、働く蒸留所を渡り歩き、更に八年が過ぎ、ウィスキーの製 造技術に関して 自信を得た三人は日本へ帰る方法を探すことになる。 だが、帰路はあっけなかった。既に明治の世となり、日本は開国しておりイギリスか ら日本へ渡る船に 便乗する事は簡単だったのだ。 帰国のための船賃は、蒸留所で八年働いて得た賃金で充分に賄えた。 だが彼らが帰国したとき、密命を命じた天皇は既に亡く、明治帝の御代になってお り、それどころか彼ら を送り出した高野一族の長老も老齢で病の床にあった。 日本製ウィスキー献上の当ても無かったが、彼らは諦めずに長老を説得し、ウイス キーの蒸留所を建造 し、日本でのウィスキー製造を試みる。 一年目の樽は全て失敗に終わった。二年目の樽もうまくいかない。試行錯誤を繰り返 して三年目の樽を 仕込んだ年に長老が亡くなった。 その後、ウィスキーの製造は諦められ、蒸留所は解体された。ただし、三名が習得し た知識の全てはここ に記し、後の世に伝えるものとする。』 こうして、壮絶なドラマは幕を閉じる。後は、ウィスキー製造に関するノウハウの羅 列である。 「で、何が高野一族の犯罪なのだ?」 「『鎖国』という禁を破ったことでしょうかね」 「つまらん!今の世では何の役にも立たん。日本政府がこれを知っても、取り締まり はせんじゃろう」 「中身を精読せずに、表書きだけを読んで判断したら、この文書は隠しておかねばな らないと思い込むで しょうね」 「で、帝国重工は今頃になって、何故こんな文書を引っ張り出して、ウィスキーを作 ろうと思い立ったのだ?」 「おそらくは長老の死に伴う世代交代の混乱により、この文書が逸失していたのが、 最近になって再発見 されたと考えるのが妥当ですね」 「確信できるかね?」 「半分程度は」 「まだ疑念があるかね?」 「奴らが、我が大英帝国の技術援助なしでウィスキーの製造に取りかかれた謎は解け ました。 詳細な技術情報が残されていたのなら、他人の助けを借りずに作ろうと考えるのも不 思議ではありません し、これを書いた杜氏らが存命中なら後進への技術指導も可能でしょう」 「私はもう、これにかまけるのは止めて、新しい情報の入手を企てた方が有益だと思 うのだがね」 「それは工作員を通じてやらせています。私本人が研究所の日本人に頻繁に会うのは 問題があるので、 上海の友人から紹介してもらった中国人を連れてきて、彼との連絡係をさせていま す」 「野口君の情報だな。彼は宴席で興が乗ると饒舌になる癖があるらしく、色々と研究 所内外の情報を教え てくれるらしいな。彼としては世間話のつもりで背徳感も無く喋っておるのだろう が、少しでも情報が 欲しい我々には、有り難い情報源だ。しかし、そろそろビッグな情報が欲しいところ でもある」 「この情報の裏がとれたら、この件はすっぱり切り捨てて、新しい作戦を始めます」 「裏をとる?」 「蒸留所が本当にダミー施設でないかどうかの確認です。本国のウィスキー蒸留所の 技師に見せて、 スコッチの作り方として誤りが無いかどうかを検証してもらいます。もしも、デタラ メならこの物語は、 我々のような諜報員を誤魔化すための創作です。 しかし、このレシピの通りにやれば、スコッチが作れるようなら、本物でしょう。 彼らは本気でウィスキーを作ろうとしているに過ぎない」 「判った。本国にそのように手配してもらおう。しかし、大変じゃぞ」 「何がです?」 「何って、君。ウィスキー製造方法を記した部分を英語、いやゲール語の方が好まし いだろう、に翻訳して 本国へ送らねば、スコットランドの蒸留所の誰もこんな日本語は読めんからなぁ」 「閣下、私は日本語はかなり読めるようになったと自負しておりますが、スコットラ ンド・ゲール語に 関してはまったく不勉強でして」 「それはいかんなぁ。このゲール語の辞書を貸してあげよう。それと、馭者のマク ドゥガルは スコットランド出身だから、彼からゲール語を学ぶと良い。 だが、彼は読み書きが出来なかったから、二人で仲良くゲール語の読み書きを学習す るのも良いだろう」 「閣下ぁ??」 それからウィンスレイド大尉は、領事館付きの専属馬車の馭者と、ゲール語の学習を 始めることとなる。 さらに八ヶ月後 ようやく、ウイスキー製造方法の記載をゲール語に翻訳し終えたウィンスレイド大尉 は、副領事を訪ねていた。 「閣下、ようやく翻訳が完了しました。これを本国へ送って、内容の確認をさせて下 さい」 「苦労したようじゃのう」 「えぇ、とにかくウィスキー製造に関する専門用語がもともと日本語に無いのを無理 して造語・借語して 書いていますから、それを読み解くだけでも一苦労ですよ。 『ギボシ(擬宝珠)釜』というのが、アランビックの事だとすぐに察しがついたので すが、その上に載せ てあるパイプを『エボシ(烏帽子)管』と呼ばれたら『それは何?』と一晩悩みまし たよ。 一番困ったのは、度量衡から違う事です。 元々の文書の記載はこの国独自の尺貫法なので、これをインチ・フィートやポンドに 換算しなけりゃならない。 更に時間の単位も、一日を二十四時間に分ける方法では無く、昼の長さを六分する方 法で、しかも夏と冬 で一刻の長さが違う。 一番困ったのは、温度です」 「この国の温度の測り方はおかしいのかね?」 「温度をデジタル化してないんですよ。 『春三月の水の冷たきほど』とか『蜜蝋の溶け始める暖かさ』とか『夏至の日、晴の 午後の高野本館二階 の屋根瓦の如き熱さ』とか、具体的に華氏何度か?換算なんかできやしない。 大体、高野屋敷の本館って何処にあるんですか?」 「それが蛮人どもの知恵なんだからしょうがないじゃろ」 「二度とこんな仕事はしたくないですね」 「君が言い出したことじゃよ」 「判ってますよ。墓穴をほってるなって。さぁ、これがゲール語翻訳です。ゲール語 が間違ってちゃ拙い ので、一応英訳文も作りました。これを本国へ郵送して、確認してもらって下さい」 「よし、預かろう」 書類を受け取ろうとした副領事は、最前届いたばかりの、本国からの重要書類の存在 に気付いた。 「ひょっとしてこれは?やはりそうか!」 急いで封を切って、中身を確認する。 「何でしょうか、閣下」 「本国で解読をしとった文書が翻訳されて戻ってきておる。読んでみるかね?もっと も君の解読した内容 とあまり変わらんようだが」 「なるほど、冒険譚の部分は、ほぼ間違いないようですね。しかし、ウィスキー製造 方法に関する部分は 誤りだらけです。やはり、その国の文化に直接触れていなければ、微妙なニュアンス などは伝わらないの でしょう」 「間違っとるのなら駄目じゃな」 「何がでしょう?」 「本国で誰か気の利いた者が、内容の信憑性について検証をしてくれとるかと期待し とったのじゃが」 「間違ってたら話になりません」 「うむ、君の翻訳を送るしかあるまい」 さらにさらに八ヶ月後 ウィンスレイド大尉は、副領事に呼び出されていた。 「何でしょう?閣下。ウィスキー製造技術の検証に関してならば、回答が早すぎる気 がしますが?」 「本国から届いた新聞だが、帝国重工が系列会社において、ウィスキーの製造を始め たことを公言しておる」 副領事から見せられた新聞には、確かにそのような内容の記事が掲載されていた。し かも、極秘文書に 書かれていた三名の冒険譚が、やや簡略化されてはいるものの、ほぼ同じ内容で記載 されていた。 そして、この内容を公表した理由についても触れられていた。 というのも三名の酒造技術者(杜氏)が、国禁を犯すという大罪を犯してまで技術を 会得しながら、命を 下した天皇にウィスキーを献上できなかったことを恥じていたためこの情報は秘匿さ れていた。しかし、 全員が鬼籍に入ったため、公表することとした。と解説されてあった。 更には、産業スパイのごとき真似をして蒸留所から技術を盗み出した事を恥じてお り、帝国重工としても 技術を授けてくれた相手に謝礼をしたいので三名が働いた記録がある蒸留所に百ポン ドの報酬を出すと 申し出ている。とも記されていた。 蒸留所が特定できないのは、三名が死ぬまでその社名を口に出さなかったためであ り、英国滞在中に使用 していた偽名ももはや判らないが、ウィスキーの熟成を待つように気長に待つから、 心当たりのある蒸留 所は連絡して欲しいとも書かれていた。 「本国での反応はどうなんです?」 「およそ二十社が、我が社の可能性があると申告してきたようだ。うち三社は既に倒 産しており、会社組 織も残っておらん。ほとんどは謝礼目当ての騙りだろうが、本当の蒸留所を特定する のは難しいんじゃな いかな」 「簡単ですよ。例のレシピの通りにスコッチを作ってみて、同じ味、一番似た味の ウィスキーを作っている 蒸留所が本物です」 「それがそう簡単でも無いらしいぞ。例の製造方法は複数社の技術を総合して書かれ たものだし、高野 一族が独自に考案したアイディアが詰め込まれて居るらしくて、正統なスコッチの製 造法とは多少違って おるらしい。しかも、彼らは冷涼なスコットランドの気候から温暖湿潤な日本の気候 風土に合わせた改良 も試みているらしい。これでは技術を習得した蒸留所と同じ味にはならん」 六ヶ月後に続報が届いた。 帝国重工は、申し出のあった二十社全社と交渉を行い、真贋を問いただした。 その結果、七社が誤解であったと自発的に辞退し、三社が帝国重工担当者の質問に応 えきれず該当の蒸留 所ではないと判定された。 しかし、残った十社については判定しがたく、結局謝礼の額を倍増して二百ポンドと し、各社に二十ポンド ずつを支払うことで決着したらしい。 そして、山崎に建設された蒸留所からの初回製品が二年後には出荷可能であると報じ られていた。 「二年後か、ちょっと楽しみですね」 「私は任期が切れそうだけれどね」 「結局、私の疑いは間違っていたと判りました」 「いや、君の懸念は当然のものだったと思うがな」 「いいえ、私は帝国重工の存在を、一種の超常現象として解釈しようとしていまし た」 「なんだね?それは」 「閣下は、マーク・トゥエインをご存じですか?」 「植民地の作家だったかな。確かトマス・ソーヤーの冒険とか書いていた」 「はい。彼の著作の中に『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』という作品が あります。私は、 帝国重工の存在を、この作品の主人公が如きものである可能性を考えていました」 「興味があるな。どんな物語だね?」 「ファンタジーですよ。19世紀の植民地人が、六世紀の我が国に現れて、アーサー 王と円卓の騎士達の 間に一波乱巻き起こすという、まったくあり得ない物語です。 彼は天文学の知識を駆使して日食を予知し、大魔術師として遇され、やがて英国を近 代化に導きます」 「それが成功して居ったら、我が国は十世紀以上も前に産業革命を成し遂げ、世界を 制覇しておっただろうな。 で、結末はどうなる?」 「宮廷魔術師の地位を奪われたマーリンが、彼に強力な呪いを掛け永き眠りにつかせ ます。 彼が次に目覚めるのは19世紀になってからでした」 「ふむ、参考にはならんな。 我々はマーリンのように、帝国重工を千年以上もの眠りにつかせる魔法など使えぬ」 「ですから、これは単なるファンタジーで風刺小説に過ぎません。帝国重工がはるか 未来の優れた技術を 持ってやってきた連中だなんて事はありえない事が、今回の一件で証明されました。 まぁ私の妄想による疑いだったわけですから、証明も何も必要ないのですが」 「そう言い切れる理由は?」 「高野一族は幕末時代、つまり米国がこの国を開国させた頃から存在していました。 もし、未来から優れた技術を持って来ていた連中だとしたら、その後の維新と彼らが 呼ぶ政変や、薩摩の サイゴーが起こした内戦(西南戦争)を座視したでしょうか? 列強諸国が、この国に不平等な条約を押しつけるのを黙って見ていたでしょうか?」 「介入しない理由は無いな」 「そうです。ですが、彼らは何もしなかった。凄い技術を持って未来から来た連中で はなかったから何も できなかった。何かする力も無かった」 「それが、今になって色々やり始めたのは?」 「この国の民族は、他から模倣し、それを更に改良・向上させる能力に長けていま す。欧米諸国が技術を この国に与え始める前は、この国の師匠はシナでした。 しかし、シナは衰え、この国は繁栄しています。技術の模倣と改良によって」 「帝国重工に力を付けさせたのは、我々列強諸国だとでも?」 「えぇまぁ、杜氏がたった三人でやってきて、ウィスキー製造に関する技術を全部盗 み出してしまい、 その上改良まで試みる連中です。何をやらかしても、もう驚きません」 「彼らの技術も我々の技術の延長上にあるものに過ぎないと?」 「はい。そう考えて対抗策を考えるしかありません。相手が夢みたいな存在だと認識 しても、何の助けに もなりません」 「うむ、ところでそのマーク・トゥエインの著作の話な。他の者には話さぬ方が良い ぞ。 笑われるのがオチじゃ」 「そのようにします」 頷いてウィンスレイド少佐が退室したのを確認すると、副領事は途中までやっていた 立体パズルを手に とって動かし始めた。 静岡の木材模型メーカーから発売されたその立方体パズルは、きらびやかな漆や螺鈿 で飾られた輸出用 モデルであったが、副領事は漆の部分が指の脂で汚れるのもかまわず立方体の色を揃 えるべくパズルを 回転させる。 立方体の六面がそれぞれ別の色で塗り分けられており、それが更に縦横に三分割され ていて、分割されて いるラインで自由に回転させることができるようになっている。 これを自由に回転させ、一旦は色をバラバラにした後で再びこれを揃えるのがこのパ ズルの楽しみ方である。 もともとは子供用の知育玩具として発売されたものであったが、大人でも楽しめると して人気が広がり、 外国人も土産に求めるようになり、副領事が手にしているのも、そういった輸出用の 製品だった。 なお、これが欧米でブームとなっている事を知ったある国で、早速にも類似品が作ら れた。 鮮やかな六色に彩られたそれは磁器でできており、木製品(漆器)の日本製に比べ重 量感溢れる出来栄え だったが、手に取った人を失望させ、うっかり買ってしまった客から土産として受け 取った子供たちを 「コレジャナイ」とがっかりさせていた。 それは回転しない=単なる置物だったので。 もちろん、副領事が遊んでいるのは日本製の本物であり、帰国するまでに解き方をマ スターして孫たちに 自慢してやろうと暇を見つけては励んでいたのである。 そして二年後 「閣下、山崎の蒸留所からスコッチが届いております」 「確かビルマの宝石に関する情報を教えてくれた、ノグチとかいう内通者が居る所 だったな」 「はい、彼のもたらす情報は、解釈を過たない限り非常に有用です」 「解釈を間違うのは本国の連中の責任だ。とは言え、そのとばっちりがコッチに来る のは願い下げだな」 「同感です。誤った分析に基づいて働かされるのは遠慮したいものです」 「今晩、このスコッチを味わおうと思うのだが、君もどうかね?」 「今日は、書道教室があるので、ちょっと遅くなるのですが」 「あぁ、生徒が君の家に集まるのだったな。では、行き帰りに自転車を貸そう。H. D.L.を付けたから、 坂道も楽だぞ」 「感謝します。あっ、そうそう閣下は聞きましたか?実はミトコーモンは全国を漫遊 していなかったそうで、 諸国を行脚して諸悪を懲らしめたというのはまったくの創作だそうですよ」 今では児童生徒に書を教える立場となったウィンスレイド少佐であるが、日本を知る 勉強はまだまだ続く のである。 ほぼ同じ頃、帝国重工では真田と黒江がウィスキーのニューボトルを空けていた。 「この新しい瓶のキャップを開ける瞬間が、たまらなく気持ち良いんだよな」 「あぁ、この瓶のために、金属製スクリューキャップを封印技術から解除しといて正 解だったわい。 ワインやシャンパンのコルクを抜くのが酒を飲むための儀式なのと同様に、ウィス キーの封を切るのも 楽しみの一つ」 帝国重工は、金属製スクリューキャップを清涼飲料水の大量消費とキャップが山野に 捨てられて景観を 損ねる等の遠因となりかねないと、一旦はこの技術を封印することとしていた。 しかし、黒江らの強い要望により、高級酒のキャップには使われるようにしたのであ る。 それはガラス瓶製造技術の底上げという課題との関連もあった。 明治期の日本のガラス瓶製造技術はまだまだ未熟であった。 なにしろ、ビール製造工場における不良品の最たるものは、瓶を封印するための王冠 を取付けようとしたら、 瓶が規格許容限度外であり、うまく密閉できない、あるいは、瓶の口を締めようとし て瓶が割れてしまう 等の不具合であったのだ。 その低い瓶製造技術を底上げし、技術力をアピールするには金属製スクリューキャッ プはもってこいの 技術であると判断されたのだ。 「そして、最初の一杯を注ぐときだけの『トクトク』という音。これまた堪らない」 「ふむ、香りはこんなものじゃろうな」 かすかなスモーキーフレーバーを嗅ぎながら、タンブラーを口へ運ぶ。 「まろやかな香味、全てにバランスのとれた味わい。本物のジャパニーズウィスキー だ」 黒江も手放しで褒める。 「5年の熟成でここまで完成させられるなら、十年二十年と熟成させたらどうなるこ とやら」 「このウィスキーを英国の品評会に出品させてみるよう、高野さんに進言してみよ う。 そこそこ良い評価をもらえるかもしれない」 「そうだな。この味がヨーロッパ人にどんな評価をもらえるか楽しみじゃわい」 どうやら、磨きぬかれた珠玉はバランス良く積み上げられ、さらに輝きを増すべく磨 かれ、さらなる高み を目指すべく積み上げられ始めたようである。 「ところで、真田さん。神戸のウィンスレイド少佐に、そろそろビッグな情報をプレ ゼントしたいんです が、何か適当なネタってありませんかね?」 「ウィンスレイド?あぁ、我が帝国重工の正体を『ハンク・モーガン(アーサー王宮 廷のヤンキーの主人公)』 と看破しかけた男じゃったな。 うーん、彼向きの技術情報ってあったかなぁ?」 「どうも、英本国では、彼がダブルになったのでは?と疑われ始めたようなんです」 「かなりの日本通になっておるようじゃからなぁ」 「本物のダブルは彼の使っている工作員なんですけど、彼の信用が失墜すると、せっ かくの『野口情報』 も欺瞞情報展開の窓口に使えなくなってしまう」 「野口君の飲み代を工面してくれる、貴重な人物でもあるしのぉ。 小ネタで無く、大きな情報となると高野さんと相談してみるか……そういえば、この 前のビルマの宝石は 楽しかったな。あんなネタをもう一度やってみるのも面白いかも」 真田の言う『ビルマの宝石』とは、帝国重工が大量に作った人造宝石である。 真田曰く『なに、錆びたアルミの結晶にクロムやコバルトでちょっと色を付けただけ のものじゃ』 だが、世界はそれをルビーとかサファイヤとか呼んで非常に珍重する。 以下は英国が把握している(つもりの)情報である。 南方熊楠博士がビルマの奥地を探検(貴重な菌類等のサンプルを採取)した際に、滞 在していた村を 襲った伝染病に的確な処置を施し村の壊滅を防いだ。 その謝礼として、村人から託された石という事で、ラングーンの宝石商に鑑定を依頼 したところ、非常に 良質の宝石であることが判明した。 南方博士は宝石をくれた村の場所を誰にも明かさなかったが、ウィンスレイド少佐は 野口から情報を得た。 野口の元には南方博士がビルマで入手した菌類のサンプルが存在し、当然その入手場 所についての情報も 含まれていた。 この情報は本国に伝えられ、議員や大臣の鉱山会社がビルマ奥地を目指した。もちろ ん野口情報を知らない 数多くの山師も一攫千金を夢見てビルマ奥地へ向かった。 そこはビルマというよりも、もはや清朝の領域(少数民族が住む領域)だったが、英 国政府は鉄道を建設 して、ビルマの延長として扱い、経済もビルマと深く繋がっていく。 遠い未来にビルマが独立を果たす時、この地域がビルマと一体となった国になるかど うかはまだ判らない。 しかし、再び中国が権勢を取り戻してもこの地がその中央政権に服することはもはや 無いだろう。 英国の大臣が送り込んだ鉱山会社は、莫大な儲けを得ることは出来なかった。 その鉱区からは予想した程には宝石が出なかったのである。もっとも、運の良い山師 が見つけた良質の 宝石が会社に持ち込まれるため、経営はなんとか成り立っていた。 原石を引き取り、磨いて送り出すだけでも充分な利益になったのだ。ただ、山師たち の口は固く、宝石の 入手場所についての情報を得ることはできていない。 なお、英国政府も知らないことだが、帝国重工の工作商会も現地に出店し、宝石採掘 を始めている。 もっとも彼らが掘って持ち出しているのは、大量のレアアースというまったく別の希 少資源だったが。 真田が思い出したように尋ねる。 「ところで、このウィスキー、高野さんには渡したのか?」 「それなら大丈夫。さゆり嬢が1本持って行ったから、きっと今頃二人で飲んでるで しょう」 もちろん、その通りなのである。 エピローグ 帝国重工(というか壽屋だが)が、大英帝国のコンペティションに出品したウィス キーは好評を得て、 三位銅賞こそ逃したものの、将来性が期待できるとして、審査員特別賞を受賞した。 だが、審査は公平では無かったとの噂もたち、市井における評価は割れた。 好意的な一派は、審査員が人種的偏見を持って審査にあたったため、日本からの出品 に辛い点をつけたのだ。 ブラインドテイスティングであれば、もっと高い評価が得られたはずであろうと言 い、反対派は二年前の 秘話紹介が審査員の関心を集めて、自然と甘い点数になったのだろうとクサした。 壽屋の杜氏達はこれに自信を高め、よりよい酒を造ろうと決意を新たにしたものの、 帝国重工幹部連の 心境は複雑だった。 実は山崎の蒸留所で作ったウィスキーとは別に、もう一品を出品していたのだが、並 み居る強豪を蹴散ら して優勝・金賞を受賞したのは、真田が冗談に出品した未来ウィスキーの模造・合成 酒だったのである。 最初は匿名(日本の弱小蒸留所)という事でコンペティションに参加させていたのだ が、金賞受賞により 隠しておけなくなり、仕方なく「スコットランドで技術を学んだ三人の高野一族が帰 国後に作って貯蔵を 続けていたウィスキーである」という逸話をデッチ上げて公表することになる。 合成機を使って3時間もかけずに製造した模造酒が好評を博して絶賛されたことに黒 江は驚き、高野は呆れた。 真田は「あいつら味音痴なのか?」と「信じられない」を繰り返し、やがて「美味い と思うなら好きなだけ 飲ませてやろう」と、工場の奥に消えた。 数ヶ月後、ヨーロッパに『高野一族秘伝のウィスキー』なる製品が密かに出回ること になる。 しかし、それは日本からの直輸入ではなく、何故か中国経由のルート不明品であり、 ラベルもコンペティション 出品の物とは似てはいるが別物だった。何よりも、蓋が金属製スクリューキャップで はなく、コルクだったのだ。 だが、大衆にそんな差が判るはずもなく、その酒は大量に売れ、飲んだ顧客もその味 に満足していた。 おそらくは、高いお金を払って買った酒だし、ウィスキーの利き酒コンペで偉い審査 員の先生方が美味い と判定して優勝した酒で、廻りの人も美味い美味いといって飲んでいる酒だから美味 いに違いないと自分 に暗示を掛けて飲み、美味しいと思い込んだのだろう。 なお、帝国重工本社のエチルアルコール工場は、原料を処理してアルコールにするシ ステムであり、その 原料は、二条大麦等の穀類では無く、枯れ草や稲藁、落ち葉や伐採した枝などの、良 く言って『薪』、 別な言い方をすれは『生ゴミ』なのである。
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