■ EXIT
黒江大佐の憂鬱・窓のフチから未来が覗く


帝国重工が持つ未来技術を、どんなタイミングでどのような方法で、世界に公開し、
日本に技術提供していくかは実に微妙な問題であった。

高野総帥は最高のタイミングで最高の手法で公開・技術供与を行う計画を、さゆりら 準高度AI群と段取りしつつあったが、全て が計画通りにうまく運ぶとも限らず、勢いでなし崩しに公表されてしまった技術も実 は無数に存在する。

これは、そんな技術の公表にまつわる話。



「そう遠くない未来、騎兵の役割は偵察や連絡といった情報業務になり、
 遊撃部隊としての価値は低くなるでしょうな」
陸軍乗馬学校長でもある秋山好古大佐の発言は、その場にいた騎兵将校の感情的反感 をかったものの、多くの者の理性的 賛同をえていた。

「しかし、騎兵部隊の迅速な進撃は歩兵部隊では代替できないのでは?」
異論もあがる。

「いや、帝国重工が進める「日本近代化案」によれば、
 将来的には『もーたりぜーしょん』によって、
 軍隊そのものが自働車化されるだろう。

 となれば、騎兵の移動も歩兵部隊の移動も機動力は変わらない。
 それどころか、自働車用の道路が整備されれば、
 歩兵部隊は騎兵隊よりも迅速に行動できるかもしれん」
帝国重工が頒布したパンフレットを手に反論が行われる。

「いや、騎兵部隊こそが自働車化によって高速化されるべきだ。
 助攻部隊が敵の主力を正面で拘束している隙に、
 自働車で高速化された騎兵部隊が敵を迂回・挟撃する」
自由奔放な発案の中には、将来の機甲戦を予想される意見まで出てくる。

「火力はどうする?騎兵や歩兵が高速で突っ走っても、
 火力支援が疎かでは勝負に勝てん」

「重砲も自働車化するべきだ」
「野砲を軽量化して、騎兵や歩兵が運用するという手もある」

勉強会という名目であるものの、料亭を借り切っての宴席。最上級者である秋山大佐 の「無礼講」命令により、階級を越えて 自由闊達な意見が出るのは、もちろん酒の勢いもある。



「まずは、どの程度の性能の自働車が出来るか?を考えないと」
「反対だろ!どういう性能の自働車が必要であるか?だ!
 もっとも、これは帝国重工の開発能力に大きく因っているわけですが」



オブザーバーとしてこの酒席に招かれていた、黒江大輝大佐に衆目が集まる。 頬ばっていた鯛の刺身(配膳の一部は、黒江の今日の釣果でもある)を飲み込み、箸 を置いて答える

「技術的なことは、高野さゆり嬢ら科学者、真田中将以下の技術者に聞かないと判り ませんが、近い将来に軍用の自働車は必ず 完成するでしょう。そして、その車両は軍の野砲や重砲を牽引して機動するのに充分 な性能を持っていることは確実です」
あくまでも「近接戦闘の専門家」という立場からの発言である。


「路外でも運用できましょうか?」
すかさず質問が飛ぶ。

「無論です。民需用の車両にはそこまでの性能を必要とはしませんが、
 軍用車両は路外でも使えねば話になりません」

情報秘匿の必要・義務が無ければ、いくらでも教えてやれるのだが、未来知識を勝手 に流すわけにはいかない。
当たり障りのない情報、外国へ漏れても(この座にスパイがいる心配は無いのだが) 大丈夫な程度の事しか言えない。


「機動力は良いとして、騎兵の脆さは問題だ。
 発達した銃火、特に陣地機関銃の掃射に対しては騎兵の突撃は全く無力だ」
若い騎兵将校が新たに話題をふる。

「それは、武田の騎馬隊が設楽ヶ原で信長軍の鉄砲柵に敗れ去った時から判りきった 話だ。陣地機関銃への突撃に関しては 歩兵部隊でも同じ事が言える。この点に関しては自働車化による機動力の増大はあま り意味がない」

「いや、予備兵力の迅速な移動には価値がある。
 正面からではなく、敵陣を迂回してだな」

「迂回できる余地が無い場合はどうする?
 例えば要塞陣地で全周囲に対して防衛線を張り巡らせていたらつけ込む隙が無い」

「そういう敵陣って、そもそも攻め落とす必要があるのか?陣地機関銃が歩兵や騎兵 の大部隊を阻止できるなら、要塞の外周を 陣地機関銃の列で取り囲んで待ち伏せれば、敵兵力を要塞内に封じ込められる」

「敵は内線の利を利用できる。一点突破を図って機関銃による犠牲を顧みずに大兵力 で敵が吶喊してきたら、陣地機関銃で 完全に阻止できない可能性がある」

「そうならないための、予備兵力の自働車化だ。
 必要に応じて自働車が兵員を必要な陣地へ運べば対応は可能だろう」

「良い事を思いついたぞ。自働車に屋根があるとしてだ。この屋根の上に陣地機関銃 を乗せておく。そして、各陣地に自働車用 の待避壕を掘っておいて、敵が打って出た箇所へ機関銃自働車が出向いて陣地の補強 をする」

「移動中に狙撃されないか心配だな」

「自働車に装甲を施してはどうかな?
 小銃弾に耐える程度の防御を備えれば戦場で敵の砲火にある程度は耐えられる」

「無理だよ。そんな物を作ったら機関車みたいに重くなる。仮に帝国重工にこれを動 かせる発動機械を作る力があっても、 その装甲自働車の車輪は地面にめり込んで動けない。戦場では役に立たない」



黒江は話を聞きながら、隣に座る秋山大佐を見る。そろそろ四十の坂を越えるが、美 丈夫ぶりは変わらない。本来の歴史では 「日本騎兵の父」と称揚されることになる筈の明治の偉人。二一世紀の黒江が国防軍 を志望した動機の一つが彼であり、ある 種のあこがれの存在であり、大酒豪として知られる彼と酒を飲める喜びにありなが ら、全てを話せないもどかしさを感じていた。


「黒江大佐は騎兵の経験がおありかな?」
秋山が尋ねる

「いえ、残念なことに。しかし、乗馬は心得ております」
そう、二一世紀の軍隊に騎兵は(儀仗用を除いて)存在しない。黒江の乗馬経験は高 等学校時代の馬術部だった。秋山好古や 西竹一にあこがれ、馬術部のある高校を選択志願したのだった。その年のクラブ新入 生で一番に上達したが、成長に伴い体格が どんどん良くなりすぎ、競技騎手になるのは不利だった。
それに、彼にとって乗馬はスポーツ競技ではなく、戦闘技術の一部であった。高校時 代の彼の口癖は「満州で馬賊になりてぇな」 だったのだが、もちろんそんなファンタジーな願望が叶うはずもなく、国防軍のオー トバイ偵察兵を志願。
そこから彼の社会人人生は始まっている。


「ならば、今度の日曜日に一緒に遠乗りでもいかがかな?」

「喜んで……、ちょっと待って下さい」
秋山大佐の誘いに快諾しかけて予定を思い出す。次の日曜にはイリナ・ダインコート と約束があった筈だったが、詳しいことは 携帯端末へメールで届いている。そして、内ポケットの中には端末があるが、ここで 取り出すわけにはいかない。

「おそらく大丈夫だと思いますが、予定を確認せねばなりません。しばし、失礼を ば」

そう言って席を立ち料亭の厠へ向かう。


厠は無人だったが,念を入れて(大)用の個室に入って扉を閉める。懐から情報端末 を取り出しメールを確認する。東京市には 連絡用の基地局が極秘裏に設置されつつあったが、この料亭はまだ圏外だった。しか し、イリナからのメールは帝国重工を 出かける前に受信済みだったので問題なく閲覧できる。

「広報事業部が華族の趣味を取材。何故、それに俺が関係ある?」
イリナからのメールは、東京海上保険会社の創設に関わったといわれる,さる大物華 族の令嬢を取材するので、警護を手伝って 欲しいという内容だった。
目的が不明だ。という事は、イリナが何かのサプライズを考えているのだろう。それ が黒江自身に対してなのか?それとも周りの 誰かに対してなのかは判らないが。
とりあえず、悪いようにはなるまいと高をくくり、時刻と場所を確認する。『午後一 時、高円寺』

「確か、将軍家光だか吉宗だかが鷹狩りをした場所だったような?」
昔読んだ雑学クイズの知識を思い出しながら、端末をしまい個室から出る。


ついでに(小)用も済ませておこうと、アサガオに向かう。
ガヤガヤと声がして、男が二人入ってきた。この厠のアサガオは二つしかない。

「おやっ、先客がいらっしゃる。では、社長お先にどうぞ」
部下なのだろう。若い男が一歩引いて疲れた表情をした初老の男性に先を譲る。

「うむ」
男はなにやら考え事をしている風で、黒江の隣に立ち、何気なく下を覗いて……


いきなり、瞳を輝かせた!

異様な視線を感じた黒江は、隣の男を見て驚く。社長と呼ばれていた初老の男性が、 自分の股間を凝視している。すぐに しまいたいが、放出の最中なので終わるまでは不可能だし、途中で止めるのも難し い。

やっと用を終え、しまおうとすると、男が声をかける。

「済まぬが、もっと良く見せてくれんか??」

「何を言ってるんですか?あなたは!」

「どうしたんですか?社長」
部下らしい男が心配して声をかけるが、社長は無視して黒江に近寄り、股間に手を伸 ばしてくる。

「良い加減にしてください。」
と言いつつ、黒江は相手の異様な気迫に押されて一歩下がる。

社長が追って前に進み、更に下がろうとした黒江は便所下駄が滑ってその場に尻餅を つく。
それを追う社長はかがみ込んで、黒江の股間に首を突っ込んでくる。

「社長!止めて下さい」

「止めろ!私はノンケだ」

体術で老人を払いのけることは簡単だったろう。しかし、狭い厠で老人を投げ飛ばす のは躊躇われた。力を加減すれば 良いのだろうが、酒の入った身体で格闘して手加減するのは難しい。

「この狼藉者!」
この場所にはまったく不釣り合いな女性の声が響き、厠の入り口に立ち尽くしていた 男を押しのけて黒い影が飛んでくると、 社長と呼ばれた老人を羽交い締めにして起き上がらせた。

「大佐、大丈夫ですか?」
特殊作戦群に所属する擬体の一人、リリシアである。

締め上げられた老人は、息ができないのか顔を真っ赤にしながら、それでもなお、黒 江が逸物をしまい込むのを見続けて いたが、黒江が立ち上がると同時に力なく首をうなだれた。

「あっ、落ちた」

「黒江大佐、何の騒ぎかね?」
騒動を聞きつけたのか、秋山大佐までやってきた。

「おや、吉田君じゃないかね。それに倉田社長。」

「あぁ、秋山様。社長が錯乱してしまいまして。公爵家の姫さまからの頼まれごとが 無理難題で、ちょっと疲れていたんです。 決して悪意からこちらの男性を襲ったわけでは無い……んだとは思うんですが……」
吉田と呼ばれた社員は社長をかばう。

「公爵家の姫とは、『黒姫様』か?」
心当たりがあるのか、秋山が尋ねる。

「はい、お察しの通りで。ところで、秋山様。こちらの方は?」
失神した社長を渡り廊下へ横たえたリリシアと並んで立つ黒江に視線を向けながら、 吉田が問う。

「おぉ、この若者(外見の肉体年齢は20代なので)は黒江君といって帝国陸軍に、い や、この日本国にとっても最も重要な 人物の一人だ。軍では大佐として待遇しておるが、その彼に狼藉を働いたとあって は!」
秋山は吉田をギロと睨む。

「いや、襲われたといっても実害はありませんでしたし、
 理由が判れば構いません。それに罰は既に受けているようですし。」
と、言いながら黒江は(世の男性にとって、リリシアに抱擁されるのが、はたして罰 なのか?それともある種の報償なのか? どちらののだろう?)とか考えていた。

「それよりも、秋山大佐。こちらの人物をご存じなので?」

「うむ。軍に装備品を納入してくれておる業者でな。最近では騎兵用の長靴を入れて もらっておる。こちらの若いのが吉田君。 あっちで寝込んでおるのが倉田社長だ。で、自業自得とはいえ、倉田社長は大丈夫な のかな?」

「大丈夫でしょ。極度の興奮状態に呼吸困難が重なって前後不覚になっているだけで す。頭を冷やしてしばらく寝かせて おけば気がつくでしょう」
社長に冷たい視線を浴びせながら、人ごとのようにリリシアが答える。


「社長が気付きましたら、黒江様を襲った理由を聞き出して、必ずお詫びに伺います から」

そう挨拶すると、気絶した倉田社長を背負って吉田は帰って行った。


秋山大佐が改めて黒江に問うた。
「そうだ、この騒ぎで忘れるところだった。日曜日の予定はどうかね?」

「午後一時に高円寺に行く予定があります。それに間に合うようでしたら、大丈夫で す」

「それなら問題ない。遠乗りの目的地を高円寺にすれば良いからな」

「なるほど。それなら行けますね」

「うむ、馬の手配をしたら待ち合わせる場所を連絡しよう。いや、日曜が楽しみだわ い。それと勉強会の方は適当に終わらせて おくから、会場へは戻らずとも良いよ」
リリシアに気兼ねしたのか、そう言って秋山大佐は宴会場へ帰ってゆく。




「なんか気をまわされたみたいだな。ところで、何時から見ていた?」
東京湾を渡る小舟の上、夜風に酔いを覚醒しながら黒江は言った。

「『何を言ってるんですか?あなたは!』からですわ。狼狽える大佐って初めて見ま した。」
闇の中を見通して、船を幕張・帝国重工本社へ向けて航走らせながらリリシアが答え る。

「最初からか?もう少し早く助けて欲しかったな」

「だって、黒江大佐ともあろう男があんな老人に、後れを取るとは思いませんもの」

「変質者に襲われる恐怖ってやつの片鱗を見せてもらったな。ところで、次の日曜日 の予定について、シーナ達から何か 聞いていないか?」

「九条節子(さだこ)様のご趣味に付き合うとか?」

「それに何故、特殊作戦群の俺が?」

「戦技とは無関係らしいですよ。
 もちろん、護衛として有能なのは判りきっていますけど、
 襲われる心配もあまり無いでしょうし」

「なら、何故?」

「私たち準高度AI群は、戦場で必要とされるほぼあらゆる技能を持っています」

「ジェット戦闘機から戦車まで、全部乗りこなせる。そう聞いている」

「また、市井に溶け込んで生活できる程度に人間的な一般技能も持っています」

「うむ、良い女房になれる」

「ですが、日本国防軍でも、日本国の市民生活でも必要のない、
 必要なかった特殊な技能については無知です」

「君たちに、何か出来ないことがあるって事が想像付かないんだが?」

「二一世紀の国防軍に騎兵組織はありませんでしたし、国民生活でも乗馬が必要とさ れる機会はありませんでした。故に、 私たちには『馬に乗る』という技能をプログラミングされておりません。もちろん、 その技術を持った方からレクチャーされれば、 良い生徒として学習する能力はあります」

「ひょっとして?」

「そうです。九条節子様のご趣味は乗馬。
 そして、帝国重工内で準高度AI群に馬術を教えられるのは、
 黒江大佐、あなただけなのです」

「なるほど。馬術が趣味の姫君ねぇ。
 イリナ達が好みそうな人選だ。
 しかし、馬術は「先進科学」向けの題材じゃないような気がするけど」

「なんでも競馬好きの英国向け記事に、日本の馬術の隆盛ぶりを報じるんだとか」

「それ自分で、一人前に乗れるようになってから始めても良いんじゃないかと思う ぞ」

「ほんっとに、艦隊に黒江大佐が居らして良かったわ」

「聞けよ!」




翌朝、帝国重工本社を訪ねてきた倉田社長と吉田君。平身低頭して黒江に謝罪し、理 由を語った。

さる貴族の姫さまが、最近馬術を始められ、陸軍騎兵隊に長靴を納入してた倉田の会 社に乗馬用のブーツを注文した。 吉田は外国から女性用乗馬靴のサンプルを取り寄せ、姫さまの足の寸法にあわせて縫 製し、公爵家に納めた。 しかし、その品が姫さまのお気に召さなかったらしい。

「らしい」というのは、姫さまから直接不満を申し渡されたわけではなく、「良かっ たぞ」とか「気に入った」というお褒めのお言葉が いただけなかった、というに過ぎないのだが、吉田が家令や女中から伝え聞いたとこ ろによると

「脱いだり履いたりするのに、少々不便だのう」

という感想を漏らしたそうなのである。

確かに、朝起きて靴を履いたら、就寝時にベッドに入るまで靴を脱ぐ必要のない西洋 社会と違い、畳の上で暮らす日本では、 靴は履きやすい/脱ぎやすい、に限るのであった。

それを聞いた倉田社長。なんとかしようと思案するも解決策が見いだせず、本人曰く

「なんかこう、巾着の口をシュッと締めるような感じのモノが無いかと思い悩んでい た矢先、黒江様の股間に光明を見いだした のです」

黒江大佐は(また何を言い出すんだ?この老人は)と顔をしかめる。

だが、居合わせた高野総帥には話が見えたようだ。


「お話は良く判りました。
 しかし、弊社の商品を御社に提供できるかどうかは、
 これから社内で検討をしなければなりません。
 返答はそれからで宜しいですね? おそらく明後日には回答できると思いますが?」

「はい、それで構いません。宜しくお願いします」



「話が全然判らなかったんですが、一体なんだったんです?」
倉田社長達を見送った後、黒江は高野に尋ねる。

「黒江君。盲点だったよ。ファスナーだ。 一九世紀の日本にはまだ存在しない。
 発明されたのが何時か、あるいはこれから発明されるのかもしれんが、
 世界中どこにも、我々のズボンに付いているような高度に洗練されて
 完成されたファスナーはまだ存在しない」

「言われてみれば、その通りだ。
 確かにライディングブーツにファスナーが無いなんて想像もつかないけど、
 この時代のブーツにはそんなものは無かったんだ」

「さゆり君、大至急でファスナーの権利特許関係がどうなっているか?
 を調べてくれたまえ。
 うまく使えば日本特産の軽工業品として世界へ売れる製品を作れる」



「線ファスナーだけで宜しいのですか?」

「えっ?」
確認のための、さゆりの質問に、これは高野も驚いた

「他にもあるのか?」

「『ファスナー』という製品についてデータバンクに照会したところ、『点ファス ナー』『線ファスナー』『面ファスナー』の三種類が 確認されました。倉田社長が欲しているのは線ファスナーのようですが、他にもファ スナーと名の付く製品があったものですから」

「点ファスナー?初めて聞くような?」

「一般的には『スナップボタン』『スナップホック』と呼ばれることが多いようです が、要はこれの事です」
と、懐から拳銃を納めたホルスターを取り出し、フラップを留めている丸い金具を指 し示してパチンと開いた。

「面ファスナーは聞いたことがあるぞ。マジックテープのことじゃないかな?」

「そうです。
 ある種の野草の種子が衣服に付着しやすいという原理を応用したもので、
 確かこれは第二次世界大戦後に発明されたものです」

「ベルクロならしょっちゅうお世話になっているな。
 マグポーチのフラップ留め、戦闘服へのワッペン留め、装備品の固縛。
 数え上げたら切りがない。特戦群はコイツに頼りっぱなしだ」

「他にも我々二一世紀人が、『在って当たり前』と思っていても、まだこの時代には 存在していない発明品があるかも知れないが それを詮索していてもしょうがない。とりあえず、今の3種類について、我々の過去 ではどうだったのかと、この世界でどうなって いるかを確認してくれ」

「判りました」




過去において、ある製品が何時発明されたかを電子データの中から拾い出すのは簡単 だった。

点ファスナー(スナップボタン):原理的な製品は1885年にドイツで発明されたが、 現行品に近いものの登場は第一次世界 大戦頃。

線ファスナー:原理は1891年にアメリカで発明、1893年に製品化されるが、かみ合わ せが悪く、絡まったり勝手に開いたりの トラブルが多発。1913年に改良(エレメントの上下に凹凸を設けて外れないように工 夫)される。現行品はその発展型。

面ファスナー:1948年にスイスで発明される。


しかし、実際にこの世界で特許がどうなっているかはアメリカやドイツの特許を所掌 する官署へ出向いて、そのような特許が 出願されているか?を調べなければ判らないのである。しかし、時差の関係もあり、 一両日中に全て確認するのは不可能に 思われた。




「ですが、問題はありません。少なくとも、倉田社長のお役には立てるはずです」
さゆりは高野総帥にそう言い切った。

「そもそも、特許は国際的には通用しません。この3種類のファスナーについて、日 本国においてはまだ特許出願はなされて おりませんから、帝国重工が特許出願することが可能です。ですので、倉田社長へ ファスナーを提供するのは全く問題ありません」

「また、製品を海外に輸出する場合でも、輸出先国において先に特許出願されていな ければ、我が帝国重工ないしはその 代理店が特許出願し権利を得ることが可能です。何らかの特許出願が既になされてい る国に対しては、改良点を特許出願し、 基本となる特許のみでは製品を完成させられないよう無意味化させる事ができます」

「こちらの生産体制が整う前に、模倣品で先んじられる可能性は?」

「この製品を全世界に一斉にアピールして、主要国に同時に特許出願しましょう。生 産技術において百年以上のアドバンテージ があります。まがい物の粗悪品に対して、はるかに高精度な製品をより安価に提供で きるのです」

「安価とは、どの程度の価格設定を考えている?」

「我が社にとっては、暴利に近いですが、競争する外国の他社にとっては関税率を引 き上げてでも競争にならない、というような 価格です」

「売れると良いな。いや、売らねばならんのか」

「広報事業部が今度の日曜の撮影会を、製品のアピールも兼ねたものにするそうで す」

「あぁ、九条公爵の令嬢を取材するというので、黒江君に馬術指南を頼んでいたとい うアレか……、ひょっとして、倉田社長の 顧客というのは、九条家の姫さまの事か?」

「九条節子(さだこ)・九条の黒姫様が、日曜の取材相手で間違いありません。乗馬 を嗜まれる公爵令嬢は日本にはそんなに 居りませんもの」

「そういえば、秋山大佐もその令嬢を『黒姫様』って呼んでいたが、
 どういう意味だい?」

「公爵令嬢でありながら、高円寺の農家に里子に出され、自然に触れてたくましく成 長されたからだそうな。活発で健康的な 女性は大いに結構」
高野がイリナに感化されたようなことを言う。

それを聞いて (奥ゆかしい女性も良いものだと思うんだがなぁ)とは思っても、口には出せない黒 江だった。




「大人数になってしまって、申し訳ない」
口ではそう言っても、黒江の表情にはあまり謝罪の意志は現れていない。

「なんのなんの、帝国重工広報事業部の方々を厭わしく思う馬鹿は、
 この日本には居りませんぞ」
成績は芳しくなかったものの、国体の少年トップスコア競技に参加した経験がある黒 江大佐は兎も角として、つい最近になって 馬術を始めたばかりという、たどたどしい少女も居る一団を率いてゆっくり進む秋山 大佐=陸軍乗馬学校長は上機嫌だ。

他の擬体達はそれなりに馬を乗りこなせているのだが、体格の小さいイリアは馬に侮 られているのか、少々おぼつかない 足取りである。やや遅れ気味のイリアが、馬を急かせると今度は速歩になって、並歩 の皆を追い抜いて行く。止めたら止まった で今度はなかなか動き出さない。黒江が追いついて鞭をくれてやって、ようやく動き 出す。

しかし、これは偽装であることを黒江は承知していた。知覚を共有すらできる準高度 AI群にとって、乗騎を乗りこなせている周 りの擬体の技能をイリアが使えない訳はない。だが、吉田から伝え聞くところによる と、九条家の姫さまの乗馬技術はさほど高くは 無いらしい。年齢の近い(設定となっている)イリアの技量が『黒姫様』のそれに近 ければ、親近感を持ってもらえるだろうとの 作戦である。


新橋を発ったのが、朝の9時。途中で休憩を挟みながらも距離にすれば20キロメー トルに満たない路程である。騎乗の旅で あれば昼前には、高円寺に到着していた。

九条家が整備したその馬場には、陸軍の第一騎兵連隊が先行して撮影用の機材を運び 込んでいた。秋山大佐の伝で助力 を依頼したところ、希望者が続出し、品行が良く技能も最上の騎兵将校を選抜して荷 物運びを「お手伝いさせていただけるのは 無上の喜び」と、参加させたのである。
騎兵隊の他にも、帝国重工から撮影会の案内を受けた各国の記者達十数名がそれぞれ 報道写真家を従えて集まっていた。

厩舎脇に止められた行李台車のそばで馬を降りたイリナは、機材を確認すると運搬役 の騎兵達に謝礼をしてから、皆に昼食を 提案した。

「それは良い。ちょうど腹も空いてきたことだしの」

「では、準備を始めましょう」

機材の梱包を解いたイリナ達は、軽合金製のチューブを組み上げて骨組みを作ると、 それにシートをかぶせて手際よく天幕を 立ち上げていく。

「あっ、そこの天幕は後ろだけ風よけを張っておいて」

「わっかりましたぁ」

指示を受けた娘は平シートを一枚持って来て天幕の脇に広げると、角の部分で何か操 作を行ってから、スライダーを一気に 引いて三角形の天幕に風除シートを結びつけた。

「良いわよ。建てて!」

背面にだけ風よけシートが付いた天幕が建ちあがる。



「さっきの見たか?」

「あぁ、あの女の子が、テントとシートを一瞬で縫い合わせた」

「どういう魔法を使ったんだ??」

外国記者達が驚愕する中、天幕は組み上げられ、撮影会と昼食の準備は出来ていく。

招待された外国人記者向けの天幕席には、テーブルと折りたたみ式の椅子が並べら れ、日本人参加者向けにはゴザが 敷かれる。ただし、主賓たる九条家の姫さまの席は緋毛氈である。


「魔法じゃない。この上側のテントの金具と下側のシートの金具が、ぴったりと組み 合って接合しているんだ」
テーブルに着いた記者達は、天幕に使われているファスナーに気付き、驚嘆の声を上 げる。

「おや、この部品は動くぞ。なるほど、これを動かすと縫い合わせたり、解いたりで きるのか」
スライダーが動いてエレメントを結合する仕組みを確認しながら、天幕を壊さんばか りに調べ廻している。


昼食の準備が整った頃、馬場へ馬丁の少年を引き連れた少女が一騎やってきた。パ リッとした乗馬スタイルに真新しい黒の 乗馬用ブーツがまぶしく輝いている。九条家の厩務員が馬を取り囲み、節子の下馬を 助ける。

「イリナ様、お早いお着きでしたのね。お出迎えもできず、失礼いたした」

「えぇ、陸軍騎兵の方々に荷物を運んでいただいて、
 思いの外早く着くことができました。丁度昼食の支度ができたところです」

「それは有り難い。実は空腹に耐えかねておったのじゃ」
そう言って、ブーツを脱ぎ、緋毛氈の上を進み、イリナの隣に座る。

「吉田から聞いた。あの靴の仕掛けを作ってくれたのは、
 そなたら帝国重工とか。感謝しておるぞ。あれは便利で良い」 最前脱いだブーツを見やって節子が笑う。

「これから世界に売り込む、帝国重工自慢の製品です」

「うむ、大いに売れるであろうな」

「それについて節子様にお願いがございます」

「『売り込みを手伝え』とな」

「ご賢察のとおり」

「外国人記者が居るので、一目でわかった。
 日本国を良きへ導き、諸外国に対してそれを知らしむ。
 それは我ら華族として遇される者の使命じゃ」

「頼もしきお言葉、有り難う存じます」

「で、商品の広告宣伝に何をすれば良い?」
節子がいたずらっぽい笑顔で訊く。

「特に何かを意識して演じていただく必要はございません。ただ、今日は良い天気で すが、午後から風が強くなり、関東の 一部地域ではにわか雨が降るやもしれません」

「雨か?馬が濡れるのは嬉しゅうないな」

「家臣の方々は雨宿りされるよう進言されましょうが、
 節子様は『このような雨、大したことはない』と、乗馬をお続けになる」

「少々の雨ならいつもの事じゃ」

「そこで、帝国重工から節子様に、簡易な雨具を贈らせていただきます」

「雨具?」

「私たちが今来ている上着です。ちょっとした防寒具なのです。もちろん前留めは、 この通りファスナーを使っております」
イリナ達が着用しているブルゾンは撥水性が高いのに、中にこもった汗の湿気は外に 逃がすという優れものであるが、さすが にそんな機能までは公表はしない。

「それは嬉しい」

「節子様に上着を渡すのは、あそこで秋山大佐と語らっている黒江大佐の役目です。 彼が騎士道精神を発揮して、自分の 防寒具を節子様に提供されます。ですが、黒江はご覧の通りの偉丈夫。彼の上着は大 きすぎると不満を漏らして欲しいの です」

「妾に『わがままな姫を演じよ』とな。よいよい。気にするでない。日本の女子はお となしくて、男どもの言いなりになっていると 見なされる傾向が、特に外国に多いとか伝え聞く。きちんと己の意見を言える女子が 日本に居ると示すのもよかろうて」

「有り難うございます。そこから先は我々にお任せください。」

「妾の不満を解消してくれるのだな。で、如何にして?」

「それは今、存じ上げない方が宜しいかと」

「その方が宣伝効果も高まるのじゃな?」

「左様で」

悪巧みの相談を終えると、昼食をしながらの歓談となった。

イリナ達が厳選した料理は黒姫様のお気に召した事は間違いなかった。




昼食を終え、撮影会が始まる。

節子は記者達が近付いてくるのを待ってから立ちあがり、ブーツを履き、ファスナー を締め上げるのを見せつける。
馬場には場丁によって障害物が並べられ、騎兵将校と擬体たちが華やかに技を競い合 い、その脇で黒江大佐の監督指導を 受けながら、節子とイリアが若干低めの障害に挑戦していく。


やがて、予報通りに風が強まり、雨が降り始めるが、シナリオ通りに節子は乗馬を続 ける意志を示し、自分のブルゾンを脱いだ 黒江から上着を受け取って羽織る。


「これは寒うのうて嬉しいが、妾の身体には、少々大きすぎるのぅ」

「サダちゃん、大丈夫よ。この服はこういう仕組みになってるの」
記者らが見ているのを確認してイリアが近寄り、服の使い方を伝授する。

「袖はここをこうしてっと」
余った袖を巧みに折りたたみ、スナップボタンをパチンと留める。

「袖口はこう締めるの」
袖口に張り付いていたマジックテープをバリバリと剥がし、袖を絞ってから巻いて固 定する。

「雨降りだから、丈はこのままで良いとして、真ん中をこう絞って」
脇腹のマジックテープを剥がして、胴回りを引き締めてから再びマジックテープで固 定する。

「最後に、ここを開いて」
首筋の辺りにあるファスナーを開き、中に折り畳んでいたフードを取り出して頭にか ぶせる。節子の体格にあったレインコートの 出来上がりである。

「これで大丈夫よ!」

「うわぁ、魔法みたいね」
記者達に聞こえるように感想を述べ、馬に飛び乗る。

「じゃぁ続きよ。今度は負けないんだから!」
「なんの!返り討ちよ」



と、笑いながら馬場へ戻っていく少女二人。それを見ながら黒江がつぶやく。
「この雨、いつまで降る予定だい?」

「30分も続かないでしょうって」

「早く止んでくれないと、俺が風邪を引きそうだ」

「体力には自信があるんじゃなかったの?」

「ほんっとに久しぶりに馬に乗って思い知った。
 もう高校生時代のような若さは無いってね。
 老いを感じたっていうのかな。すこし寒い」

「後でたっぷりと暖めてさしあげます」

「ありがとう。リリシア」


馬場には少女達の歓声と馬のいななきが共鳴していた。




エピローグ

これを機に帝国重工はファスナー類の発明を公表し,各国で特許申請を行った。基本 特許を持つ会社は抵抗したものの, 周辺特許を固められ技術的発展の余地を失い,帝国重工製の製品に抗し得ないと判断 した会社は帝国重工またはその 代理店へ特許権を売り渡す事しかできなかった。

帝国重工は巨大な顧客である軍需への注文には応じず,海外向けの製品は高級ブラン ドに厳選していた。

欧州での代理店は,さゆり嬢以下擬体達の何故か圧倒的な支持を受け,パリに本社を 置く馬具製造業者に過ぎない「エルメス」 社が選ばれた。エルメスは帝国重工の依頼に基づき女性用の各種鞄を製造し,帝国重 工製のファスナーを付けて販売した。

非常に高い価格設定であったにもかかわらず,鞄は飛ぶように売れた。イリアのファ ンである貴婦人方が広告を見て買い あさったのは言うまでもないが,節子姫の活躍も無視できるものでは無かった。

九条節子はさる王室に嫁ぎ,めでたくも世継ぎの王子を懐妊する。公務で外出した際 をねらって報道写真家が彼女を激写した。
マグネシウム光に驚いた彼女は手にしていたハンドバッグで胎児のいる下腹部を庇っ た。

新聞・写真誌のトップを飾ったその鞄は一躍有名になり,貴婦人方どころか,一般大 衆女性にとっても憧れの存在となる。
エルメス社ではこの事件を機に,その鞄に節子王妃の名前を付けて販売しようとした が,大日本帝国が皇室の人物名を商品 登録することを許可しなかったため,彼女の結婚前の姓である『九条』の名を取り, 『クジョー・バッグ』と名付けられる事となる のである。
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