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帝国戦記 第五章 第01話 『宣伝支援艦:前編』


あなたを愛している人は、あなたを泣かせる事も出来る。

アルゼンチンの格言





1910年 06月18日 土曜日
趙爾豊(ちょう じほう)率いる四川軍がチベット領内に於いて日本軍事顧問団とチベット軍の猛攻撃によって壊滅する。




1910年 06月23日 木曜日
ロシア帝国海軍向けの薩摩級戦艦「ガングート」が横須賀工廠で、「ペトロパブロフスク」が佐世保工廠で始まる。




1910年 07月01日 金曜日
国防軍に於いて世界最初の水陸両用飛行機である1試大型飛行艇が飛行を行う。

外部装甲は晴空は高い防弾性能を有し、エンジンには紅葉にも使われているターボプロップエンジンの改良型が4基搭載された機体だ。与圧キャビン、グラスコックピット、フライ・バイ・ライトも備わっており波高3メートルの荒れる海への着水が可能である。加えて95km/hで離水可能な短距離離着陸 (STOL) 性能を有しており、救難飛行艇としての機能を十分に満たしていた。もちろん、優れた降着装置―――水中での車輪の出し入れ―――斜路からの基地への出入り能力もあるのだ。

最高速度は604km/hと大型水陸両用飛行機としてはかなりの高速性を有し、また乗員2名の他に18トンの貨物か32人の兵員の搭乗が可能なほど。 航続距離は紅葉よりも長く、多数の島を抱える日本圏にとって重要な機体として位置付けられていた。




1910年 08月17日 水曜日
ロシア帝国、日本帝国、シベリア公国との間に相互不可侵条約を締結。同時に、限定的ながらも相互経済交流を盛り込んだ三国間の通商条約も締結され、ハバロフスク地方に対して帝国重工の投資が始まる。




1910年 09月01日 木曜日
スヴァールバル諸島スピッツベルゲン島西岸に建設中だった国防軍のニーオルスン基地が完成する。




1910年 10月04日 火曜日
ポルトガルの首都リスボンで武装した共和主義者による宮殿占拠が発生。国王はイギリスに亡命し、1910年10月5日革命が成立によって共和国に移行する。




1910年 11月18日 金曜日
ディアス政権下のメキシコに於いてフランシスコ・マデーロの呼びかけによってマデーロの革命が勃発。メキシコ北部一帯でイギリス製兵器を用いた武装蜂起が大規模に発生し、政府軍との戦闘を開始する。イギリス帝国は反乱軍との関与を否定。




1910年 11月21日 月曜日
アメリカ合衆国は英独仏に対して清国の幣制改革と満州企業振興のための四国借款団の結成を提唱するも史実と違ってドルの価値が下落しており一蹴される。




1911年 12月10日 土曜日
清国に於いて北洋軍閥を率いる袁世凱(えん せいがい)が死亡する。
イギリス帝国による暗殺説あり。




1910年 12月04日 日曜日
ロシア帝国、イギリス帝国、ドイツ帝国、フランス共和国の四カ国の外相が大連市に集まり、清国が上海条約によって統治権を喪失した満州地域や清国に関する協議が行われた。非公式ながらアーヴァイン重工の重役がオブザーバーとして参加している。




1911年 01月13日 金曜日
オスマン海軍向けの薩摩級戦艦「スルタン・オスマン1世」が呉工廠で始まる。




1911年 02月07日 火曜日
袁世凱の元で結束していた北洋軍閥を構成する安徽派、奉天派、直隷派、山西派、西北派は目指す政策の違いや、列強による謀略、賄賂、懐柔によって分裂。 清国全土に於いて安徽派、奉天派、直隷派、山西派、西北派の各派による武力衝突が始まった。(直隷派、安徽派は共闘)各派に対して英露仏独からの積極的な武器供給が始まる。




1911年 03月01日 水曜日
日本帝国とアメリカ合衆国はイギリス帝国、フランス共和国の仲介の下でフィリピン条約の延長を決定する。




1911年 03月28日 火曜日
東京の日本橋が木橋から石橋に架けかえ工事を終了。
翌月の3日には大規模な開橋式が行われる。




1911年 05月05日 金曜日
埼玉県の帝国軍所沢基地で帝国軍と国防軍の共同開発による自力発航型格納式モーターグライダーである1式軽飛行機 鴻(おおどり)が初飛行する。総重量525kg、75馬力、両翼2個ずつの外舷タンクとテールタンクを合わせて合計190.5 リッターの燃料容量を誇るモーターグライダーであり、性能としてはDG-808Sに近いものだ。 また、この開発には史実に於いて日本民間航空の発展に尽くしていた二宮忠八(にのみや ちゅうはち)と奈良原三次(ならはら さんじ)が技術者として参加していた。




1911年 06月01日 木曜日
巡洋艦「黒姫」、護衛艦4からなる艦艇がニーオルスン基地の配属となり、日本バレンツ海艦隊として行動を開始する。ニーオルスン基地は北極圏航路を用いた後方支援基地としての意味合いもあり、北欧や欧州方面に於ける軍事作戦の要であった。また、日本バレンツ海艦隊の主任務はスヴァールバル諸島の防衛および、東海域の通商路防衛の任務である。




1911年 08月21日 月曜日
日本帝国に於いて内務省管轄の公安警察が発足。




1911年 09月29日 金曜日
イタリア王国がオスマントルコ帝国に侵攻を開始。
両国の間で伊土戦争が勃発する。




1911年 10月10日 火曜日
清国湖北省に於いて武昌起義が起こる。史実に於いては辛亥革命の幕開けとなる事件だったが、分裂状態に陥った清国に於いては波及効果は一部に留まった。




1911年 11月01日 水曜日
日本帝国に於いて農商務省内局の特許局が1914年を目処に特許省に昇格する事が決定する。




1912年 01月13日 土曜日
日本海に於いて統合艦隊はロシア帝国極東艦隊との合同演習を行う。主力艦だけでも戦艦「長門」「伊勢」「シーザー」が参加する豪華なものだったが、演習終了後、帰路に着く「シーザー」は機関不調により舞鶴港に緊急入港となる。




1912年 02月19日 月曜日
スペイン海軍向けの薩摩級戦艦「エスパーニャ」の建造が横須賀工廠で竣工する。




1912年 02月24日 金曜日
イタリア王立海軍とオスマン海軍の間でベイルート沖でベイルート海戦が勃発。パオロ・ディ・タオンレヴェル少将率いる巡洋艦「ピサ」「アマルフィ」、駆逐艦「ガンナー」からなる艦隊がオスマン海軍の装甲艦「アヴニッラー」、砲艦「アインタブ」「バフラ」「グッティバ」「カスタモヌ」「ムハ」「オルドゥ」、水雷艇「アンカラ」を撃沈する一方的な勝利を収める。

史実では巡洋艦の代わりに「ジュゼッペ・ガリバルディ」「フランチェスコ・フェルッキオ」が参加していたが、この二隻は日本海海戦で戦没していたので新鋭艦の2隻が参加していたのだ。




1912年 03月02日 土曜日
ロシア戦艦「マーズ」が青森沖で座礁。














1912年 04月11日 木曜日

東京府新宿町にある統合軍令部の庁舎8号棟にある運用部のオフィスで村上格一(むらかみ かくいち)少将が一つの書類を見ていた。運用部とは部隊編成及び戦力構成の評価と、必要資源の調達や戦力評価、兵器開発に於ける方向性の選定を担当する部門だ。運用部の範囲は多岐に及ぶ。

第一部:電子部門(無線通信、計算機、電子機材、電波、音響)
第二部:砲熕部門(砲塔、重火器)
第三部:装備部門(携帯用火器・機材、戦闘服及び着用品、医療器具、戦闘食)
第四部:車両部門(輸送車両、装甲車両、大型工兵器材)
第五部:船舶部門(水上戦闘艦、潜水艦、輸送艦、その他船舶)
第六部:航空部門(軽飛行機、飛行機、飛行船)
第七部:造機部門(機関)


電子部門の命名由来は無線通信、計算機、タッチパネル、電波探知などを国防軍が電子機器や電子機材と呼んでいた事に起因する。ともあれ、これらの部署は直接的な開発は行わないが、選定に於いては開発部の主任との打ち合わせが頻繁であり、相応の知識が必要とされる部門だったのだ。

「新たに2隻の薩摩級の建造ですか?」

「そうだ。
 それと建造用資材に関しては帝国重工が受け持つ」

体力の衰えから退役した西郷従道に代わって統合軍令部議長(軍務大臣)に就任していた加藤友三郎(かとう ともさぶろう)大将が応じた。加藤大将は史実に於いては八八艦隊計画の推進者でありながらも、国際世論と国内経済を考慮して八八艦隊計画の見直し及び軍備縮小を行うという、一流の政治センスを持つと同時に、大きな国益のために軍縮を優先する決断力と実行力を備えた人物だった。

そして、彼らの言葉は妄想の類ではない。

現在、帝国軍に於ける最大規模の造船設備を有する横須賀工廠のドックは6号ドックまで完成しており、その内訳な次のようになる。当初から艦艇の大型化を盛り込んで作られていた4号ドックは施設の小改装に留まっていたが、1871年に完成した1号ドック、1884年12月に完成した2号ドックでは拡張工事が行われ、大型巡洋艦である大淀級はもとより、より大型である葛城級でも入渠可能な中型ドックになっていた。もっとも中型といっても日本基準で考えたものであり、諸外国に於いては大型と言っても差支えがない。

1884年7月に完成した3号ドックは全長90メートルと小型ドックだった事もあって、文化遺産の保存目的として雪風級の入渠が行える全長120メートルまでの拡張工事に抑えられている。そして4号、5号、6号の三つの乾ドックは薩摩級戦艦、長門級戦艦の両クラスに対応した大型ドックとなっていた。4号ドックには完成間近の戦艦「ガングート」が入渠している。5号ドック、6号ドックにはスペイン戦艦の「アルフォンソ13世」「ハイメ1世」の建造に備えた船台の準備が進められていたのだ。

もちろん他工廠のドックに関しても拡張が進んでいた。

佐世保工廠は1904年に3つのドックが相次いで起工された際に、1号と2号ドックは小型ドックとして作られていたが、3号ドッグは中型で、4号ドック、5号ドックに関しては当初から大型ドックとして作られている。そこで建造が進められていた1906年07月20日に起工されていた薩摩級戦艦は、とある戦略的な目的から国防軍に編入済みだった。4号ドックには完成間近の戦艦「ペトロパブロフスク」が入渠している。

加えて大型ドックである6号ドックも真島健三郎(ましま けんざぶろう)の指揮の下で今年中の完成に向けて順調に進んでいたのだ。

舞鶴工廠では護衛艦用の1号ドック(1891年完成)、2号ドック(1904年完成)で海防艦、中型の3号ドック(1908年完成)で一等輸送艦の建造に専念しており、現在建設が進められている中型の4号ドックは1914年には完成する見込みだった。

神戸工廠は小型ドックである、1号ドック(1902年完成)、2号ドック(1905年完成)、3号ドック(1907年完成)の各ドックで海防艦の建造に専念している。もちろん小型艦専用の工廠にするつもりは無く、舞鶴と同じように中型の4号ドックの工事が進められており、これに関しては1913年には完成する見込みだ。

広島県呉市に設けられた呉工廠では護衛艦に対応した小型の1号ドック、葛城級に対応した中型の2号ドック、長門級などの大型艦に対応した3号ドックが稼動していた。また大型ドック2つ、中型ドック4つ、小型ドック5の建設工事が繋留岸壁と艤装桟橋の整備と共に進められている。造機部、砲熕部、製鋼部も作られており、現在行われている拡張工事を終えれば横須賀工廠を超え、更には世界の二大兵器工場と呼ぶに相応しい規模になるだろう。

このように史実よりも充実した大型ドックの存在から、今年中には3隻の戦艦の起工が可能だった。これには長門級戦艦の整備・修理の際には帝国重工と国防軍の工廠が使用可能だった事が大きい。

「薩摩級戦艦は時間さえ頂ければ大丈夫ですが、
 今のロシアにそれだけの余力があるのでしょうか?
 資材は帝国重工が用意して下さるといっても、
 無償で2隻も作るのは流石に…もちろん戦略的に有効なのは理解してます」

これから作ろうとしている薩摩級戦艦はロシアからの発注だったのだ。村上少将が懸念の意を示したのは帝国重工の財力を疑ったのではなく、日本圏に対する多額の投資を行っているのを知っていたからである。必要上の負担をかけていると思うのも無理は無い。村上少将は戦時中には帝国軍に於ける資材などの運用を担当していただけに、資材の大半が帝国重工で生産され、その大半が無償で供給されていたのを知っていた。

このような好条件で建造する理由として、主力兵器に於いて日本製を使用させる事で日本軍事力の価値を高めつつ、ロシア帝国に補修部品を売りつける目論見があったのだ。善意だけでは金は動かない好例である。

「そういえば言ってなかったな。
 戦艦の建造代金は前回と同じだよ」

「戦略的に有効なのは理解できます。
 しかし、ロシア側には売れるような戦艦は残っていないと思いますが…」

村上少将が言うように売れる戦艦とはとはアメリカ合衆国から購入していた旧コネチカットの「レトウィザン」、旧ルイジアナの「ツェサレーヴィチ」、旧インディアナの「サンクトペテルブルク」、これら3隻のような戦艦だった。戦力価値としても乏しく、また国威低下に伴う発言力の低下によって、どのような扱いをしても困らない戦艦だったのだ。この3隻は既に戦艦「ガングート」「ペトロパブロフスク」の建造費として鉄くずとして解体作業がウラジオストク軍港で進められている。

「まさかロシアが大量に購入していたイギリス戦艦ですか!?
 しかし、あれは…」

「詳細は言えぬが、足りない分は鉄鉱石で補う。
 もちろん部外秘だ口外もこれ以上の詮索も無用だぞ」

「了解しました。
 直ちに手配します」

村上少将が考えに至った戦略は当然の事で、
それ以外にも本当の目的があった。

極東地域に於けるロシア海軍の主力兵装を日本製にしていくことでロシア革命勃発時に白衛軍として行動するだろう戦力との共同作戦を行い易くし、またアメリカ製戦艦は改修余地なしと知らしめて、その価値を下落させる目的があったのだ。イギリス帝国との無用な摩擦を避けるために、引き渡される薩摩級戦艦はウラジオストクを母港とすることも決まっている。これは帝国重工とアーヴァイン重工による介入もあった。加えて極東ロシア軍には共産主義のような思想に陥らないように、まともな待遇が行われる事も水面下で始まっていたのだ。

そして、村上少将の予想通りに、計画として上がっている2隻の戦艦の代価として用意する鉄くずは、演習中に機関故障した「シーザー」と青森沖で座礁した「マーズ」が最有力候補だ。イギリス帝国からの難癖や非難を避けるために、これらの事故は全て偽装工作によって演出されたものである。

「ガングート」「ペトロパブロフスク」の後に建造計画が進んでいる2隻のロシア戦艦は「ポルタワ」「セヴァストポリ」と命名される予定だった。

加藤大将が思い出したように言う。

「フランス件も備えておいてくれ」

「勿論です。
 話は変わりますが、アルゼンチンから出港した薩摩は、
 今頃はブレストに着いた頃でしょうか?」

幕張港から出港していた国防艦隊に所属する薩摩は2隻の護衛艦と共にアルゼンチンのプエルト・ベルグラーノに寄航していたのだ。戦艦「薩摩」は広報事業部の人員が多く乗り込んだ宣伝支援艦として運用されている。宣伝支援艦の名称は非公式なものだが、その運用目的は宣伝戦略とビジネスを兼ねた一種の艦砲外交を行う艦という実情からして納得がいくものだった。

このような戦艦をアルゼンチンに向かわせる現状からして、
日本側はアルゼンチンに対してはかなり気を使っている。

その理由は明白だ。
史実に於いてアルゼンチンは一貫して親日国だったのだ。

1898年には日本帝国とアルゼンチンは対等な修好通商. 航海条約を結び、日露戦争の前には殆ど完成していた装甲巡洋艦「リバダビア」「モレノ」を有償で譲渡しており、それらの艦艇は日本海海戦の勝利に貢献している。そして、決定的といえるのが第二次大戦中に連合国側からの早期参戦への圧力にもかかわらず、アルゼンチンはその圧力に容易に屈しなかった事だろう。その粘り様は日本側が圧倒的劣勢に陥った1944年に於いてもアルゼンチンは色々と理由をつけて参戦要望を避け続けて限界まで引き伸ばしていた程だ。あの当時のアメリカ合衆国、イギリス帝国、ソビエト連邦からの圧力に容易に屈しなかったのは凄まじいと言えるだろう。しかも戦後に於いてはアルゼンチンは荒廃と食糧不足に苦しむ日本国に援助の手を差し伸べてくれた国のひとつであり、また日本の国際社会への復帰を支持する筋金入りの親日国家である。

後に日本国もフォークランド紛争の際には、その返礼としてアメリカ合衆国とイギリスからアルゼンチンに対する禁輸措置や国交断行を再三に要請されるが、それを最後まで断り続けたのだ。

このような歴史的な結果からして、
高野たちがアルゼンチンを優遇するのも無理は無いだろう。

故に鵜来級海防艦4隻分の代金も既に受け取っていた代金は返納し、兵装を外した旧式化が著しい防護巡洋艦「ベインティシンコ・デ・マジョ」「パタゴニア」の2隻を鉄くずとして受け取る事で補っていた。しかも、前に引き渡された巡洋艦「ラ・アルヘンティーナ 」駆逐艦「コリエンテス」「エントレ・リオス」の3隻に関しては、1925年までに代金か必要量の鉄くずを収めれば良い破格の条件が出されていたのだ。アルゼンチンは好条件に驚きながらも、戦力価値の乏しい防護巡洋艦「ヌエベ・デ・フリオ」「ブエノス・アイレス」砲艦「ラ・プラタ」「ロス・アンデス」を鉄くずとして解体を進めている。 また、昨日交渉がまとまった巡洋艦「ネラル・ベルグラーノ」「ヘネラル・プエイレドン」の2隻も装甲艦「アルミランテ・ブラウン」、海防戦艦「インデペンデンシア」「リベルタ」を鉄くずを代金として建造する事が決まっていた。 3隻を鉄くずにしても1万トンに達する大淀級巡洋艦2隻分には及ばない量だったが、これに関しては足りない分を鉄鉱石を対価として補う事で解決している。

アルゼンチンとしては老朽艦と自国で採掘可能な鉄鉱石で新鋭艦が手に入るので、非常にありがたい内容だった。しかも鉄鉱石を産出するパタゴニア地域を始めとした資源開発会社は帝国重工アルゼンチン支社の子会社であり重要な雇用すらも生み出していたのだ。

海軍力増強や鉱山開発だけでなく、帝国重工アルゼンチン支社が置かれているプエルト・ベルグラーノを起点とした周辺地域に対する観光やインフラに対する投資も然り。

「予定通りならばな。
 まぁ遅くとも明日か明後日にはブレストには到着しているだろう」

「アルゼンチンといえば、
 2隻の大淀級に関しては呉で作るのか?」

「その予定です」

大淀級巡洋艦に関しては帝国重工からの発注を受けて1908年にノルウェー、スウェーデン、タイ王国向けとして大淀級の建造経験を十分に保有している呉工廠が選ばれている。

「不備がないように頼む。
 アルゼンチン向けに関しては、
 高野閣下から細心の注意を払うように言われてるからな」

「判ります。
 南極大陸をいち早く承認してくださった恩ある国ですから」

帝国重工がアルゼンチンを優遇する理由を南極大陸の早期承認と思っていた二人だったが、その本当の理由がかつての世界の歴史経験から来ているとは気づく事は無いだろう。もちろん、そのような事情を抜きにしても南極に近いアルゼンチンが親日国であった方が戦略的な意味合いからも好ましいし、それが信頼出来る国家であるならばなお更だった。

故に、最高意思決定機関に於いてもアルゼンチンはトルコやフィンランドのような国々と同じ最優先支援国として認定されている。この事から信頼できる国家は宝石よりも貴重だと日本首脳部は誰よりも理解していた証拠と言えよう。また、伊土戦争に於いて日本側がオスマントルコにあえて干渉していなかったのは後のトルコの事を考えた苦渋の選択である。
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【あとがき】
アルゼンチンって凄いね!
知れば知るほど好感が沸くし、
あの国って偉大な中堅国家になる資質があるんだよなぁ…

また第5章ですが、これは仮スタートになります。

サイトの方向性からしてファンタジーのほうが優先ですし、仮想戦記は資料集めに時間が掛かるので場合によっては更新が鈍る事もご了承下さい。

(2013年09月07日)
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