帝国戦記 第30話 『開戦』
政治とは、流血を伴わぬ戦争である。
一方、戦争とは流血を伴う政治である。
毛沢東
ロシア側からの宣戦布告の可能性が高い事を高野を通じて最高意思決定機関から、
統合軍令部に伝えられてから1時間が経過している。
時を同じくして演習の名目で東シナ海の済州島の近海にて集まっていた、
ロシア艦隊は見事な陣形を組上げていた。
この、大艦隊を率いるのはロシア帝国海軍の至宝として名高い、
中将に昇進したステパン・マカロフである。
ロシア艦隊の見事な陣形はマカロフの艦隊運用能力の高さと、
全面開通しているシベリア鉄道によって運ばれてくる補給物資によって実現されており、
ロシア艦隊は燃料を気にしながら運用する必要が無い。
この様に充実した後方支援体制に支えられていたロシア太平洋艦隊は、
マカロフ中将が満足する錬度にまで高められていたのだ。
そのマカロフ中将は時間を気にしながら、
旅順の極東総督府の近くにある太平洋艦隊司令部からの電文を待っていた。
「コロング大佐っ!
太平洋艦隊司令部からの中止命令は無いのか!?」
マカロフ中将が副官のクラピエ・ド・コロング大佐に尋ねる。
「ありません」
「そうか………中止ではないのか」
「…マカロフ閣下、お時間であります」
「判っておる…」
コロング大佐の言葉にマカロフ中将は頷く。
最前線で戦った経験を持っている名将であるがゆえに、マカロフ中将は戦争の悲惨さを知っていた。マカロフ中将は偽善と理解しつつも、これから生まれる犠牲者に対して短いながらも祈りを捧げる。それを終えるとマカロフ中将は祖国ロシア帝国に対しての義務を果たすべく動き出した。
乗り気でない戦争であっても、祖国の決めた結果である以上、最善を尽くすのが軍人なのだ。その証拠に、マカロフは前々から上司のアレクセーエフ司令長官からの命令に従って、対日戦を行う際の研究を重ねてきた。そして、日本側の致命的とも言える弱点を突く戦争計画を立案している。
マカロフ中将は帽子を被り直すと、力強く命令を下す。
「…全艦に対して作戦を開始を通達、
作戦開始15分後に電文を各方面に送信せよ!」
「了解しました!」
旗艦からの手旗信号によってロシア艦隊が動き出す。
無線装置は高価なため、全ての艦艇に備えられているわけではない。
戦艦と装甲巡洋艦に限られていた。
「これで、戦争が始まるな…」
「戦争は直ぐに終わりますよ」
「だと、良いがな…
我々が使用している無線装置は日本…
いや、日本の最大企業である帝国重工が作り出しているのだぞ?」
「確かに…」
「戦争には相手が居ることを忘れないことじゃな」
コロング大佐はマカロフ中将を心配性だと思いつつも、ロシア帝国軍だけでなく、三国間条約軍ですらも使用している無線装置は、帝国重工が販売提携を結んでいるチャンドラ・ボース無線電信会社の物である事を思い出して、その性能を考えて侮るような考えを戒めた。コロング大佐は尊敬するマカロフ中将の言葉によって、油断によって足元を掬われた戦いは過去の歴史を見れば豊富にあったのを、今更ながらに思い出したのだ。
コロング大佐は上官を見習い。気を引き締めて戦争に望むことにした。
佐世保軍港が在る佐世保湾は外海との出入口が1ヶ所しかなく、
湾内の深い水深によって天然の良港になっていた。
その佐世保軍港は慌しい雰囲気に包まれている。
1時間前に統合軍令部から伝えられた警戒区分2(戦争準備態勢)の知らせと共に佐世保軍港の軍港要員や補給将校が慌しく動いていたのは、第二艦隊の出港準備だけではない。
横須賀にて出港準備を整えている第一艦隊を受け入れる準備もあるからだ。
「東郷中将っ!」
佐世保軍港に停泊している葛城級巡洋艦の常磐の昼戦艦橋に居た、出撃準備に追われる第二艦隊司令の東郷平八郎(とうごう へいはちろう)中将の下に通信参謀が血相を変えて駆け込んできた。
「どうした?」
「統合軍令部より入電、読みます!
14:00時、ローゼン公使からの宣戦布告の宣言を受けた模様!」
「真か!?」
「はい…」
自国よりも強大な国力を有する国家との戦争を喜ぶものは誰一人居なかった。
重々しい雰囲気が満ちる昼戦艦橋に設置されている艦内電話が鳴る。
電話機の近くに居た東郷中将が受話器を取る。
「こちら昼戦艦橋、東郷中将」
『こちら通信室、司令部からの電文です』
「読め」
『読みます。
城ヶ岳観測所ニテ観測、戦艦8、装巡6、巡洋12、駆逐10、14ノットデ通過セリ、以上です』
「何だとっ!
いや…怒鳴ってすまん、うむ、判った。」
城ヶ岳観測所とは
九州本島から西へ約60km離れた、長崎県佐世保市に属する五島列島の最北部の
宇久島(うくじま)という島にある観測所の事である。
場所からして、ロシア艦隊がそのまま14ノットで進んだとしても、2時間半で佐世保に到達してしまうだろう。
受話器を置くと東郷中将は昼戦艦橋の士官に状況を説明した。
「宣戦布告と間を置かずに、佐世保の艦砲射撃ですか!?」
電話の内容を聞いた作戦参謀が絶句した。
東郷中将は呟く。
「ぬぅうう……この距離からでは間に合わん…」
「第一艦隊ですね」
「そうだ」
襲来が予想されるロシア艦隊によって昼戦艦橋内が慌しくなる中、昼戦艦橋に有る艦内電話が鳴る。出航スケジュールの打ち合わせの為に航海参謀と話している東郷中将に代わって通信参謀が
受話器を取ると表情が変わった。
通信参謀が予想だにしない場所からの電話だったからだ。
「東郷中将、坪井大将からお電話です」
「なっ! 司令長官からか!」
「はい」
そういうと、通信参謀は受話器を東郷中将に渡す。
受話器を受け取った東郷中将は何事かと思いつつ、受話器を耳に近づけた。
「東郷です」
『坪井だ。今回は緊急時で、正式な命令書は間に合わない為に、直接連絡させてもらった。
追って発行するが、出航前には届くかは微妙なところだ』
「はい」
『時間が無いので単刀直入に言う。
ロシア艦隊が佐世保に向かっているのは知っているだろう?』
「はい、城ヶ岳観測所からの報告ですね」
『そうだ、遅くとも2時間後には佐世保一帯はロシア艦隊の攻撃を受けるに違いない。
そこでだ…第二艦隊は、
今から1時間30分以内に出撃準備を終えて、迎撃の任に付いてもらう。
ただし、可能な限り時間を稼ぐことを目的とし、
優速を生かした一撃離脱に徹した阻止戦闘を心がけて欲しい』
「わかりました」
『健闘を祈る』
通話を終えた受話器を元に戻した東郷中将は考える。
(一撃離脱は確かに損害は少なくて済む。
しかし…ロシア艦隊の突破を許せば佐世保港湾や市街に被害が出てしまう。
危険だが、葛城級の砲戦能力ならば距離を保ちつつ、
同航戦にて砲戦を行えば大打撃を与え、ロシア艦隊を撤退に追い込めるかもしれんな…)
東郷中将が安全な一撃離脱ではなく同航戦にて砲戦を考慮したのは、海軍中央に戻るべく多少であったが功を焦っていたのもあるが、それよりも佐世保市街に対する被害を恐れていたからだった。
帝国海軍軍人として、帝国臣民に被害が出ることが耐えられなかったのだ。
「我々は時間を稼ぐために、敵艦隊の侵攻を阻止する!」
東郷中将は次世代艦とも言える葛城級と雪風級の性能を信じて一撃離脱ではなく同航戦を決断した。
功名心だけでなく、佐世保に暮らす人々の生活を守るために。
そして、佐世保軍港と佐世保近辺の港には商船や出港準備が整っていない艦艇が多数存在していた。
それらの出航準備が整うまで、耐えねば為らない。
帝国海軍が使用する帝国重工製の高性能な軍艦であっても、
出港準備が整っていなければ標的艦と変わらない。
「判りました、直ちに出航準備に取り掛かります」
高野からの警告によって、なんとか出航準備が整っていた第二艦隊に属する、常磐、八雲、護衛艦8隻に出撃命令が伝えられていく。他の艦艇の出撃準備は、例え2時間の時間があったとしても無理だった。
東郷中将は艦長の伊地知彦次郎(いじち ひこじろう)大佐に命令を下し終えると、
通信参謀に確認を命令を下す。
「丸出山観測所に佐世保侵入まで1時間以上の余裕はあるが、
油断せずに警戒観測を密にする様に伝えろ」
「了解しました!」
史実では、佐世保湾口に進入しようとする敵艦隊に対し遠距離から砲撃を行うべく設置された砲台丸出山堡塁だったが、佐世保要塞の建設が行われていないので、この世界では、ただの丸出山観測所になっていたのだ。
もっとも、佐世保軍港の周辺に要塞があったとしても、この時代の日本帝国の要塞砲は280mm榴弾砲であり、ロシア戦艦が標準的に装備する305mm砲と対抗するには厳しかったに違いない。高野は中途半端な要塞を建設しても無駄に終わる事を知っており、西郷を通じてその分の予算を湾岸設備に回す様に手配していたのだ。
「10年ぶりの戦争か…」
東郷中将は小さく呟いてから、出撃準備を再開した。
新興国の日本帝国にとっては、2回目になる対外戦争であったが、
今回の相手は老いた清国では無く、日本の5倍以上の国力を有する
拡張主義の最中にいる大国ロシアだった。更には、ロシア帝国にはドイツ帝国とフランス共和国という列強国の支援が約束されており、日本帝国にとって清国とは比べ物にはならない強大な国家との戦争が始まろうとしていた。
第一章完
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【あとがき】
これまで帝国戦記を読んでくれた人に感謝いたします。
皆さんの感想に励まされて、ようやく第一章を終えることが出来ました!
次からは第二章に突入です!
調べ物が増えるので、帝国戦記の更新頻度は少し落ちると思いますが、今後ともよろしくお願いします〜
意見、ご感想お待ちしております。
(2009年08月08日)
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